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「衣服令」の色彩シンボリズム

   泉滋三郎. 神奈川歯科大学基礎科学論集. 14:38-47 , 1997.


目次

1. はじめに
2. 聖徳太子の「冠位十二階制」
3. 大化三年(六四七年)「七色一三階制」
4. 天智三年(六六四年)「七色二六階制」
5. 天武十四年(六八五年)「四十八階制」
6. 天平宝字元年(七五七年)『養老律令』の「衣服令」
7. 「衣服令」で使われた色彩
8. 絶対的な色彩シンボリズムの欠如

1 はじめに

日本で始めて色彩が公式に象徴として使用されたのは聖徳太子の「冠位十二階制」に始まる。
 その後位階を冠や衣服の色によって差異を付ける制度(衣服令)は幾度かの変遷を経て、『大宝律令』で定まった。『大宝律令』は今日失われているので、我々が確認できるものとしては、淳和天皇(在位八二三年〜八三三年)が勅して『養老律令』の解釈に基準を設ける為めに撰述させた『令義解』の「衣服令」によってである。本論文ではまず「冠位十二階制」以後の『養老律令』「衣服令」までの推移をたどり、『令義解』の「衣服令」を解釈する。その色彩を示すと同時に問題点を提示し、さらに日本の色彩シンボリズムについて考察する。

2 聖徳太子の「冠位十二階制」

 冠位とは冠の種類によって朝廷での席次を定示する制度で、漢の印綬の制、漢・晋の古緇布冠の制、百済の官帯の制などを学んで創案されたと考えられている。徳・仁・礼・信・義・智のおのおのを大小に分けて十二階制とし、その冠の色を紫・青・赤・黄・白・黒とし、大小は色の濃淡よって区別した。冠位制度は、諸豪族を官僚制度に組み込む必要からと考えられている。しかしこの冠位は『大宝律令』で定まったとされる位階制度で見ると、正四位以下の位階に相当し、従三位以上を定めたものではない。したがって当時の有力者であった蘇我氏は冠位制度に該当していない。
 この六色は陰陽五行説の五色、すなわち青・赤・黄・白・黒とその上に紫を加えたものである。紫が至上の色とされたのは、中国では天=北=玄=黒が至上の色とされていたが、北=黒の観念に陰陽五行説の正色・間色の概念が導入され、

紫 以水之黒克火之赤合、赤黒即紫。北方間色。
水の黒を以て火に克つこれ赤と合して、赤黒即ち紫となる。北方の間色なり。

とあり、皇帝は紫衣を着ていたからだとされる。(注2)中国で皇帝の服色である紫が、日本では正四位以下の冠の色に充てられているのは注目される。

3 大化三年(六四七年)「七色一三階制」

 大化三年、大化改新以後の新政府は「七色一三階制」を施行した。

 「冠位十二階制」の徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて十二階制とするのをやめ、織・繍・紫・錦・青・黒という冠の材料や色で区別し、それぞれを大小に分け、最下位に建武の階を加えた。「冠位十二階制」が『大宝律令』での正四位以下の位階を定めていたのに対して、織は一位(正・従)、繍は二位(正・従)、紫は三位(正・従)となり、以下大錦が四位(正・従)、小錦が五位(正・従)、大青が六位(正・従)、小青が七位(正・従)、大黒が八位(正・従)、小黒が初位(正・従)となる。
 この制度は服色も定めており、織冠と繍冠が深紫(こきむらさき)、紫冠が浅紫(あさきむらさき)、錦冠が真緋(あけ)、青冠が紺(ふかきはなた)、黒冠が緑、建武は指定がない橡色か栗色であったとの説がある。しかし確証はされていない。
 「七色一三階制」は「冠位十二階制」に従三位以上の冠位を加えた制度といえる。紫の地位が高くなり、青・黒が下位に置かれている。また冠の色彩ではなく材料が重視されている。
 「七色一三階制」はその後、大化五年に大錦以下を細分化し十九階制とされた。大錦を大華(上・下)、小錦を小華(上・下)、大青を大山(上・下)、小青を小山(上・下)、大黒を大乙(上・下)、小黒を小乙(上・下)とし、最下位を立身とした。

4 天智三年(六六四年)「七色二六階制」

 十九階制とされた冠位服色制は、天智三年に大紫以上では繍が縫に変更され、大華以下では華が錦に戻され、錦・山・乙になり、それぞれが上・中・下に細分化された。さらに最下位の立身が建とされ、上下が設けられた。
 使用された染料はほぼ以前からのものと同様だが、紺と緑に藍が使用されるようになった。
 藤原鎌足(中臣鎌足)が死の直前の天智八年(六六九年)天智天皇から大織冠と大臣の位を授け,藤原の姓を賜うが、この大織冠がこの制度における最高位のものであった。

5 天武十四年(六八五年)「四十八階制」

 冠位服色に関する制度は天武十四年に大きく変更された。
 「七色二六階制」の大織から小紫までを正位、大錦(上)から小錦(下)までを直位、大山を勤位、小山を務位、大乙を追位、小乙を進位とし、それぞれを細分化し四十八階とした。すなわち冠位名を正・直・勤・務・追・進という官僚に期待される徳目に変更した。
 使われた色彩は、まず親王以上が浄位とされて朱華(はねず)、正位が深紫、直位が浅紫、勤位が深緑、務位が浅緑、追位が深葡萄(ふかえび)、進位が浅葡萄(あさえび)であったとされる。葡萄色とは葡萄葛の実で染めたもので、暗い灰赤紫の色彩を呈する。
 「四十八階制」は持統四年(六八九年) 『浄御原令』による改正をうけ、親王以上が明位・浄大一位から四位までと変更された。服色は明位が朱華、浄大一位以下二位以上が黒紫(ふかきむらさき)、浄大三位以下四位以上が赤紫(あかきむらさき)とされた。以下正位が赤紫、直位が緋、勤位が深緑、務位が浅緑、追位が深縹(ふかきはなだ)、進位が浅縹(あさきはなだ)となった。

6 天平宝字元年(七五七年)『養老律令』の「衣服令」

 『大宝律令』(七〇一年)で、親王四階・諸王一四階・諸臣三十階の位階制度が採用されて、一世紀におよんだ冠位制は廃止された。『大宝律令』は「律」も「令」も全て失われている。『大宝律令』を引き継いだ『養老律令』では「律」の大部分が失われているが、「令」は『令義解』『令集解』によって復元できる。『養老律令』の「衣服令」とはいかなるものであろうか。
 「衣服令」は皇太子の礼服、親王の礼服、諸王の礼服、諸臣の礼服、朝服、制服、内親王の礼服、内命婦の礼服、朝服(女子)、制服(女子)、武官の礼服、朝服(武官)、制服(武官)よりなり、それぞれの位階の服色を定めている。『令義解』の『養老律令』「衣服令」(注3)を読む。

「衣服令」

六位以下の位色については朝服の項で示されている。


無位以下の服色については制服の項で示されている。


武官の服色については武官の礼服の項で示されている。


武官の服色については武官の朝服の項でも示されている。


 「衣服令」における位階の色彩序列は「黄丹」、「紫」、「緋」、「緑」、「縹」、「黄」、「黒」となる。皇太子の「黄丹」を別にすれば、最上位の色彩は紫であり、その下に赤、青(緑を含む)、黄、と続き、最下層の色が黒である。あるいは紫、緋は紅、緑、縹は碧、黄は瑠黄として中国の間色の概念が導入されているとも考えられる。この序列では、まず中国では皇帝にあたる天皇の衣服の色が欠落している。黄丹を黄とし、中国の「黄帝」にあてはまるものとしても、皇太子は天子ではない。また律令制度が中国から導入されたにもかかわらず、中国で聖なる色された黒が最も下の階層の色とされ蔑まれている。紫が当時最上の階位を占めていた藤原氏の衣装を飾る色となっている。

7「衣服令」で使われた色彩

 大化三年の「七色一三階制」のころまでは、深紫と浅紫は紫草の根、真緋は茜草の根、紺は月草の花の汁、緑は苅安草(がいあんそう?)と月草の組み合わせ、黒は橡色であり、「どんぐり」のかさを煮た汁で染めたとされる。(注8)
 天智三年の「七色二六階制」では、紺と緑に藍が使用されるようになった。
 当時使われた色彩の染料については、康保四年(九六七年)に施行された『延喜式』巻十四「縫殿寮 雑染用度」(注9)
を参考にすることが出来る。『養老律令』の「衣服令」で位色とされた色を『延喜式』の中で見てみると

黄丹
綾一疋紅花大七斤八両。支子(くちなし)一斗二升。酢一斗。麩五升。藁四圍。薪一百八十斤。
帛一疋紅花大七斤。支子九升。酢七升。麩四升。藁三圍。薪一百廿斤。
羅一疋・絲一絢紅花大二斤八両。支子三升。酢二升三合。麩二升。藁一圍。薪六十斤。

深紫(こきむらさき)
綾一疋・綿紬絲紬東施亦同紫草三斤。酢二升。灰二石。薪三百六十斤。
帛一疋紫草三十斤。酢一升。灰一石八斗。薪三百斤。
羅一疋紫草三十斤。酢一升。灰二石。薪三百斤。
絞紗(ませのうすはた)一疋紫草十五斤。酢三合。灰四斗六升。薪一百廿斤。
絲一絢紫草十七斤。酢二合。灰二斗五升。薪六十斤。
貲布(さよみぬの)一端紫草五十斤。酢一升。灰一石二斗。薪二百四十斤。
葛布一端紫草廿三斤。酢二合。灰一斗七升。薪六十斤。

浅紫
綾一疋・綿紬絲紬東施亦同紫草五斤。酢二升。灰五斗。薪六十斤。
帛一疋紫草五斤。酢一升五合。灰五斗。薪六十斤。
羅一疋用度帛同 
絞紗一疋紫草五斤。酢六合。灰一斗二升。薪六十斤。
纈帛一疋紫草五斤。酢一升。灰二斗五升。薪六十斤。
絲一絢紫草五斤。酢三合。灰一斗。薪三十斤。
貲布一端紫草七斤。酢八合。灰一斗八升。薪六十斤。
葛布一端紫草七斤。酢六合。灰一斗五升。薪六十斤。

深緋
綾一疋・綿紬絲紬東施亦同茜大四十斤。紫草三十斤。米五升。灰三石。薪八百四十斤。
帛一疋茜大廿五斤。紫草廿三斤。米四升。灰二石。薪六百斤。
貲布一端、四丈茜大十六斤。紫草十四斤。米三升。灰一石五斗。薪三百六十斤。
葛布一端茜大七斤。紫草七斤。米八合。灰四斗。薪九十斤。

浅緋
綾一疋・綿紬東施貲布亦同茜大三十斤。米五升。灰二石。薪三百六十斤。
帛一疋茜大廿五斤。米四升。灰二石。薪三百六十斤。
葛布一端茜大十斤。米一升。灰四斗。薪九十斤。

深緑
綾一疋藍十圍。苅安草大三斤。灰二斗。薪二百四十斤。
帛一疋・貲布亦同藍十圍。苅安草大二斤。灰一斗。薪一百廿斤。
絲一絢藍三圍。苅安草大九両。灰なし。薪六十斤。

浅緑
綾一疋藍半圍。黄蘗二斤八両。
帛一疋藍半圍。黄蘗大二斤。
纈帛一疋藍半圍。黄蘗大二斤。
絲一絢藍小半圍。黄蘗大二斤。

深縹(こきはなた)
綾一疋藍十圍。灰なし。薪六十斤。
帛一疋藍十圍。灰なし。薪一百廿斤。
絲一絢藍四圍。灰なし。薪四十斤。
貲布一端乾藍二斗。灰一斗。薪三十斤。

浅縹
綾一疋藍一圍。薪三十斤。
帛一疋藍半圍。薪三十斤。
絲一絢藍大半圍。薪廿斤。

深黄
綾一疋・綿紬絲紬東施亦同苅安草大五斤。灰一斗五升。薪六十斤。
帛一疋苅安草大三斤。灰八升。薪三十斤。
絲一絢苅安草大一斤。灰三斗。薪廿斤。

橡(つるはみ)
綾一疋・東施亦同搗橡(かちつるはみ)二斗五升。茜大二斤。灰七升。薪二百廿斤。
帛一疋搗橡一斗五升。茜大二斤。灰五升。薪二百廿斤。
絲一絢搗橡六升。茜大六両。灰二升。薪三十斤。


となる。それぞれの色の色調を言葉で表すと同時に、三属性表示(マンセル値)(注10)で示すと

色名色味マンセル値
黄丹黄色がかった赤9R 6/12
深紫濃色のことか? 濃い紫色。濃色であれば7.5RP 3.5/2.5
浅紫薄色のことか? 薄い紫色。薄色であれば6P 6.5/2.5
深緋濃い緋色。暗い黄味の赤。7.5R 3.5/7
浅緋浅く染めた緋色。赤。4R 5/10
深緑? 現代の深緑とは違う。
浅緑薄い緑色。くすんだ黄みの緑。10GY 7.5/4.5
青緑青みを帯びた緑色。5BG 5/10
深縹縹色として、藍染めの、浅葱と藍の中間くらいの色。3PB 4/7.5
浅縹薄縹として、くすんだ青。1.5PB 5/6.5
深黄濃い黄色。2.5Y 7/10
黒橡として、鈍色。N-2.5


であったと考えられている。
 『延喜式』「縫殿寮 雑染用度」で使われた染料は、黄櫨、紫草、紅花、支子(くちなし)、茜、蘇芳、搗橡、苅安草、藍である。黄櫨は櫨の樹皮から染料を採取されるが、実は木蝋を採るために使われる。紫草は染料であるとともに、根は紫色、乾燥したものを生薬の紫根といい、解毒剤・皮膚病薬とする。紅花は薬草でもあった。支子は梔子であり、乾した果実は生薬の山梔子として吐血・利尿剤である。茜は根から染料を採り、また生薬名を茜根といい、通経薬・止血薬である。蘇芳は明礬媒染で赤色、灰汁で赤紫、鉄媒染では紫色に染めることができる。搗橡は櫟から取られたもので、その実を黒染料として用いる。また樹皮や葉は薬用に供する。染料の多くが薬草であることが注目される。(注11)

8 絶対的な色彩シンボリズムの欠如

 『養老律令』に至るまでの冠位・服色の変遷を見たが、冠位令、衣服令を色彩のシンボリズムという立場から考察する。
 第一に問題となるのが、最高者の天皇の冠位、服色について何も書かれていないことである。『養老律令』衣服令は皇太子の服色についての記述から始まる。梅原猛氏はこの点について、奈良朝時代、中国から導入された律令制が日本では変質しているとしている。(注12)さらに

「衣服令」になぜ天皇の衣裳は記されなかったのか。その理由は、天皇が神と考えられていた日本の神話にも求められるのではないか。アマテラスば神の衣裳を紡ぐ処女であった。それは例えば「羽衣伝説」の衣裳なのである。もしそうであるなら、その色は白でなくてはならない。皇太子の衣服として白い袴、白き帯が記される。衣(表着)の色は「黄丹」とある。紅色を帯びた梔子色という。梔子色は新生児の産着の色であり、節日の「黄蒸」(御強)も梔子の実で染めた。黄は「紅白」に対する「黄白」の黄である。日本の天皇ほ皇太子と同じく白装束と黄の衣裳で古制を守っていたのではないか。(注13)

とし、中国では皇帝は天子であるが、日本で天皇は神であると理解されたからではないかとしている。中国では、天頂=天の北極こそ天帝の座であり、夜の色すなわち黒こそ、万物を支配する天帝の色彩であった。さらに天の北極に位相的にもっとも近い地上の北が、四方向のなかでも特に聖なる方向とされ、黒が配色されていることとなる。(注14) 天帝の子である天子は黒の間色である紫の衣を身に付け、紫宸殿から南面するのである。それに対して日本では明るいもの、光の源泉、太陽が神である。女神アマテラスは太陽である。夜に闇でも男神ツクヨミすなわち月と、星の神々が白く光る神として支配している。古来神器とされた鏡は光るものであった。中秋節に白玉団子を七・五・三に盛ってそなえる風習は、わが国固有の神話的思考をしめしている。これらのことから天皇の服色は白(あるいは明色の黄)であったことは充分想像される。律令における天皇の服色の欠如についてはさらに検討が必要であろう。
 日本古来の色は、青・白・赤・黒であった。青・白と赤・黒は対の概念で考えられてきたとされる。『古事記』「天の岩屋戸」では「下枝に白和幣・青和幣を取り垂でて」(次田真幸注 講談社版一九七七年 による以下同じ)と出てくることや、新年祭などにおける祝詞における青雲・白雲の文句などから、青と白の色は古来祭祀に関わるとされる。青・白の色彩シンボリズムは、祭祀・王権という中心の色彩である。さらに「崇神天皇 三輪山の大物主神」で大物主神の神託に応えて「宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、また大坂神に墨色の楯矛を祭り」『古事記』とあることから、赤と黒がセットで青・白と同様に祭祀に関わる。赤・黒は、崇神天皇が要路の境界点たる墨坂神・大坂神を赤・黒の楯・矛をもって祀ったように境界の色彩であって、祭祀についても国つ神であるとされる。(注15)
 このように古来の青・白・赤・黒については宇宙観から象徴づけられていたが、冠位令・衣服令の色彩に、絶対的な象徴性を感じることは出来ない。『養老律令』「衣服令」は厳格に位色を決めているが、各位色の象徴としての根拠は希薄である。皇太子を位色をのぞけば、鮮やかな色彩を高い位の服色としたことぐらいしか位色の理由を見いだせない。最高位者ではないものが紫を服色とし(実際は最高の実力を持っていたかもしれないが)、中国で重んじられた黒が最下位のものの服色とされた。中国から律令制は導入されたが、色彩シンボリズムは導入されなかった。それは独立国としての独自性の発揮だったのか、壬申の乱などによる混乱の中、色彩の象徴の意識が混乱したからなのか。儀礼国家としての律令体制とって色彩シンボリズムの混乱は、体制の限界を暗示しているといえないだろうか。
 秩序全体における色彩の絶対性の欠如は、厳格に決定されたはずの位色が、十一世紀以降四位以上が黒とされるように安易な変更を許している。さらに相対的な認識を越えることが出来ない色彩シンボリズムは、十二世紀以後力を増した武家において、その独自性を示すため上位の公家の服色である黒を凶色として避け、朝廷の役人の最下位の服色であった浅縹を武家の最高の礼服としたことからも知ることが出来る。