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講座 茶碗と茶壺
Niftyserve 茶の文化フォーラム(FTEA) 13番会議室
以下の内容は1996年から2000年にかけて私が茶の文化フォーラムで講義したものです。現在では私自身が疑問に思うことも記述してありますが、ここでは、私がアップした講義テキストをそのままご紹介します。
1. FTEA講座 茶碗その1
2. FTEA講座 茶碗その2
3. FTEA講座 茶碗その3
4. FTEA講座 茶碗その4
5. FTEA講座 茶碗その5
6. FTEA講座 茶碗その6
7. FTEA講座 茶壺その1
8. FTEA講座 茶壺その2
9. FTEA講座 茶壺その3
10. FTEA講座 茶壺その4
11. FTEA講座 茶壺その5
12. FTEA講座 茶壺その6
13. FTEA講座 茶壺その7
14. FTEA講座 茶壺その8
15. FTEA講座 茶壺その9
16. FTEA講座 茶壺その10
1.茶碗には黒が多い
2.黒について
3.茶碗が黒いのは
はじめに
この度、FTEAの講座を担当することになりました。よろしく・・・
私は茶の湯の専門家ではないので、私の話に皆さんの御批判を受け、より明晰な説を打ち立てることが出来れば思います。まず茶碗です。
茶碗について今まで次のように述べてきました。
茶の湯の茶碗には、天目茶碗、楽茶碗、高麗茶碗、織部や志野など様々な茶碗があります。茶碗は今日、陶器としての種類、形態、現在の美意識から論じられています。しかし茶碗は使われて初めて生き生きとするものです。茶碗は茶の湯の世界(コスモス)の中で意味を付与され、不可視のもの、すなわち茶事が作り出す世界を知覚させる道具のひとつとして存在します。
天目茶碗のうち「曜変天目」や「油滴天目」を上から拝見すると、底知れない暗やみの中に星や銀河が浮んでいるようです。「曜変天目」の「曜」とは「星」のことです。
天目茶碗と命名されたのは中国の天目山で修業した僧が持ち帰ったからだと言われています。しかし天目茶碗の天目には、天を見る目との意識あると思われます。天目山の命名の由来は、天目山に二つの峰があり、その各々の峰の山頂に池があるからだとされます。その池が天すなわち宇宙を見る目と見立てられていたと考えるのが自然です。
楽茶碗では銘「大クロ」銘「東陽坊」銘「あやめ」など黒楽茶碗が多くあります。織部茶碗では織部の他の種類の陶器が、織部を典型づけるオリーブ色を主体としているのに対しての「黒織部芦鶴文沓茶碗」や「黒織部格子文沓茶碗」のように黒が主体となっています。もちろん例外はあります。天目茶碗でも玳玻天目は黒とは言えません。白天目茶碗もあります。赤楽茶碗や高麗茶碗もあります。それらについてはあとで考察しますが、黒は茶碗の基本色と考えられます。ではなぜ黒が茶碗で意識されているのでしょう。
その1目次
中国では「玄、天也」『廣雅釋言』、「天地玄黄」『易経坤』で知られるように、天は黒(玄)とされました。また玄は「道 形無く、聲無く、始終無く、空間・時間を超越して存在し、天地萬象の根源となる絶對的な道」とされました。道教では『老子』第一章「玄の又玄は衆妙の門」とあり、神秘的な暗黒が全ての本質を生み出すとされます。
北沢方邦氏によれば、「黒が中国では天の色となるのは、太陽系宇宙に属する天体以外のすべての天体が、(地球から見て)それをめぐって運行している真の天頂としての天の北極(みかけの天頂ではなく)が、宇宙論の中心であるとする認識による」とのことです。この宇宙論から陰陽五行説も導かれており、天の北極に位相的にもっとも近い地上の北が、四方向のなかでも特に聖なる方向とされ、黒が配されています。中国では夜空の天頂、すなわち北極星が天帝の座であり、夜空の黒が万物を支配する天帝の色彩とされたのです。
陰陽五行説・易・十干・十二支から黒を考えてみましょう。陰陽五行説の考えかたによれば、黒は五色のなかの「黒」で、五行では「水」五方では「北」五時では「冬」です。五行「水」五方「北」五時「冬」を易と九星にあてはめると、一白水星で北(子)坎宮です。「子」の象意は了と一を併せてもので、日の了(おわり)と日の一(はじめ)であり、夜・闇の意となります。また「子」は新旧の交わり、陰陽の交わりを表わします。十二支の「子」の象意は孳る(ふえる)で、新しい生命が種子から萌し始める状態を示します。「北」「冬」「子」は十干の「壬」「癸」であり、それぞれの象意は「壬」は妊むで、草木の種子の内部に更に新しいものの妊まれることをさします。「癸」は揆る(はかる)で、種子の内部に妊まれたものが段々に形造られ、その長さが測られる程になったことをさします。「生」の生成される場所は水のある所であり、胎内のように暗いところで、黒によって象徴されています。「生」は陰陽の交わり、すなわち男女の交わりから生じます。陰陽五行説では五行の円滑な運行が前提となっています。黒に象徴される陰の極は死であるとともに、新しい生命の誕生をも意味することとなります。
その1目次
ところで茶碗で点てられる茶は緑色(青)であることから陰陽五行説の「春」「木」であり、「木」は「生」(き)に通じます。茶を点てるとは「生」を萌させることです。茶碗は「生」である緑の抹茶が、萌し始める場所となります。(茶が「生」であることは別に論じます)茶碗の基本色が黒なのは「生」萌す場所は陰の極であり、暗いところであり、季節の冬だからです。黒に込められた深淵としての宇宙、死の観念は、黒い茶碗の「生」の萌す場所との観念に通じています。
立花実山の「南方録」(偽書との説もあるが)には利休が侘茶の心として「新古近集」の選者である藤原家隆の「花をのみ 待たらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」をあげていたとしています。すなわち茶を点てるには、春近い冬の雪の中に僅かに春の息吹としての草が見えるようにとのことです。冬に萌す春とは、黒の中に青となります。
これらは天目茶碗、黒楽茶碗、織部茶碗の多くが黒であることに通底する意識なのでしょう。黒い茶碗は「無」でもあり、侘茶においては黒によって一切の「無」を象徴しているとも考えられます。しかし黒い茶碗が生命が萌す場所であったことは、茶の湯の宇宙観(コスモロジー)が茶碗の中でも見ることが出来るとともに、茶の湯が死と再生の儀礼(別に論じます)であったことを茶碗の色彩からも示すこととなります。
茶碗の黒について主に陰陽五行説から解釈しました。でもそれだけで良いのだろうか。以後論議は続く・・・
その1目次
目次
1.楽茶碗について陰陽五行説から解釈の追加
2.色彩象徴の多重性
3.「侘」とは何か
4.楽焼きからの考察
祭祀と楽焼
楽焼の焼成法
楽焼はどこから来たか
楽焼は何を作ってきたか
楽焼からいえること
中村錦平氏のお宅で氏の手になる茶碗で茶を頂いたとき、その黒い茶碗には深い、そして暗い洞窟がありました。天目茶碗とはまったく異なる黒い闇でした。その時、自分の考えはまたまだ不十分なのだと悟りました。
天目茶碗の黒と長次郎黒楽茶碗の黒は同じ次元で語ることは出来ません。天目茶碗が前に出た黒であるのに対して、黒楽茶碗は引いた黒です。陰陽五行説からの茶碗の解釈は、当時の人々の常識から考えても間違ってはいないようです。しかし新たな思考の旅立ちが必要なようです。
茶碗には様々ありますが、まずは千利休の指導で楽長次郎が作ったとされる楽茶碗には黒楽茶碗と赤楽茶碗から考えてみます。まずは確認から。
陰陽五行説から解釈は黒い茶碗については既にしました。長次郎作の楽茶碗について追加することは、赤楽茶碗と黒楽茶碗があると、五行相剋と五行相性からみて全ての性の人を相手に出来るということ。千利休は生年が1522年(大永2)とされ、干支は「壬午」です。陰陽五行説からこの干支を解釈すると、水と火の性であり、黒と赤です。利休所持とされるものに黒が多いのは知られていますが、「壬」への意識でしょう。具足の色は黒が基本ですが、兜に日輪があり、具足一式では干支がその根拠になっていると理解できます。赤楽茶碗の黒楽茶碗が利休の好みで作られたとされることは、利休の干支からだけでも説明できます。しかし・・・
その2目次
茶の湯は「象徴の助けを借りて人間はその個人的状況を去り、不変妥当的、宇宙的なものへと解放される」(ミルチャ・エリアーデ著『聖と俗』風間敏夫訳、法政大学出版局、1969)儀礼と考えられます。
儀礼用道具の象徴性は儀礼に関わります。色彩象徴も同様です。しかし歴史的な背景をもってあらわれる色彩の象徴性は単純ではなく、幾重にも重なり合って認識されています。時としてひとつの色が矛盾する象徴性を持っています。文化が多重な構造を持つように色彩もまた重層をなした文化記憶の中にあります。
たとえとして赤と黒の色彩象徴について、西欧での例をほんの僅かですが上げてみます。赤は西欧で火、光、熱に関連づけられて、ギリシャでは太陽神を象徴する色であり、キリスト教では肉体に結び付けられて人間の体ででした。さらに血と関わりを持つ色としてローマでは勝利を得た将軍が凱旋する際に顔に塗る色であり、キリスト教では受難を示すこととなります。 黒は西欧で土に関係するとして、ローマの地母神である豊穣の女神ボナ・デアの秘儀では生贄に黒い鶏が捧げられました。さらにエリザベス朝の演劇で、出し物が悲劇である場合、舞台の屋根の部分に黒布を掛ける習慣があったことから、冥界の闇として服喪に関わる色でした。黒はまた夜、子宮を示し、このことか
ら愛を示す色でもあったのです。( 参考文献 アト・ド・フリース著『イメージ・シンボル事典』山下主一郎ほか訳、大修館書店、1984)
日本では赤が華やかなハレの色であると共に、流れ出る血の色です。中国では黒が天帝の色と考えられ聖なる色でありましたが、日本では黄泉の国の色とされています。
赤楽茶碗と黒楽茶碗の赤と黒についても、様々な文化記憶が重ねられていると見るべきでしょう。
その2目次
陰陽五行説は中国からもたらされた思想ですが、陰陽五行説では利休の「侘茶」を説明できないのです。赤楽茶碗と黒楽茶碗は利休の「侘茶」に通じているとされるのですが、利休の「侘」とは何でしょうか。
黒楽茶碗の黒について、博多の豪商神屋宗湛の茶の湯日記である『宗湛日記』の天正十五年一月十二日の項に利休の言葉として「黒ハ古キココロ也」とあることから「侘茶」を具現したものと理解されています。では何故黒が「古キココロ」なのでしょう。林屋晴三氏は「草の小座敷における侘の茶風が終局的に深まりつつあった利休の好みを受けた黒茶碗は、まさに『数奇に入る』すなわち侘にかなう具足(道具)であった」(林屋晴三著「原色日本の美術 第23巻 陶芸(2)」林屋晴三著、小学館、1994)と書き、「侘」が言葉がなくとも解る自明のことであるかのようです。黒楽茶碗や赤楽
茶碗が、どうして利休の「侘数寄」と関わるのかはもっと考察されても良いのではないでしようか。そこには赤と黒の色彩の象徴性が関わっていると思われます。まずは基本的な問題、楽焼とはなんでしょう。
その2目次
土師器的伝統土器との類似
楽焼は特殊な焼物です。ロクロ(注1)を使わないで、丸い粘土の板を作り周囲を起こして茶碗の形に仕上げ、へらで削って完成させます。ロクロを成形に使用しない焼物は吉田光邦氏の指摘する京都洛北の神社や寺の供物用に使う「幡枝」の焼物、また伊勢神宮の祭祀用の土器を作る「有爾」の焼物くらいです(吉田光邦『やきもの』、日本放送出版協会、1973)。今日、下鴨神社の神前に供される神饌ののせられる器に見られるようなものでしょう(近々写真資料をアップ出来ると思います)。おそらくは土師器の伝統が信仰とともに残ったものだろうと考えられています。
その2目次
祭祀用土器と楽焼とを結びつけるものは何もありません。ところが元文五年(1740)刊の『楽焼代々』によると楽七代目一入とその子一元・宗入の親子は伊勢にゆき、伊勢神宮の御師のために楽茶碗や懐石道具を作ったとされます(大河内風船子「長次郎 楽代々」『日本陶磁大系第十七巻』平凡社 1990 89p)。このことから直ちに楽焼と祭祀との関わりを指摘することはできませんが、楽焼と儀礼との関係を思わせます。
楽焼は聚楽焼とも称され聚楽の土を用いましたが、土が楽焼に向いていたというよりは、「聚楽」すなわち楽を集める聖なる場所の土を使うことに意味がありました。今日でも大嘗祭のおり設けられる悠紀・主基の両殿に供える新穀を作る田である悠紀田・主基田に指定された田圃の土をもちいて楽焼が焼かれますが、聚楽の土に通じています。楽焼は日常的な陶磁器とは違うもののようです。
その2目次
楽焼は焼成法が他の陶磁器といちじるしく違っています。陶磁器の多くが今日でも信楽や常滑などでみられるように登り窯や穴窯などによって長時間窯の中で焼成されるの対して、楽焼は素焼した素地に釉薬をかけ乾燥させた後、あらかじめ800〜900度に加熱した窯に作品を入れ、釉が溶けだしたら取り出し急冷するという方法で焼成されます。作品は短時間しか窯の中にとどまらず、素地は素焼きままに近く脆く壊れやすい。焼成温度が一般の焼物の約1300度前後より低く、多くの金属の揮発温度より低いので、赤・黒のみならず多彩な色を出すことができます。(このことは重要です)
窯の形式は一般にマッフル窯と呼ばれるもので、窯の中にマッフルと呼ばれる中窯を入れ、窯の内壁と中窯のすきまを木炭などで詰めます。火を付け適当な温度になったとき、中窯の中に品物を入れて焼成し取り出します。窯の形式は中窯の使用を除けば先に触れた「幡枝」や「幡枝」のものによく似ています。すなわち垂直炎窯(注2)です。中窯の中は木炭による加熱によってむしやき状態となりますが、現在の瓦製造の窯(だるま窯という)に通じるものです。楽長治郎が瓦職人であったといわれていますが、楽茶碗のロクロを使わない成形方法、特殊な窯の形式からも瓦職人であったことは確実でしょう。
その2目次
楽長次郎は朝鮮人であるとの説がありますが、満岡忠成氏は長次郎作とされる「三彩 獅子牡丹置上縁瓜図平鉢」(東京国立博物館)が交趾三彩と良く似ていることや『万宝全書』『日本楽家伝来』などに「唐人」「唐土より」(注3)とあることや『楽焼世代』には「中華之人」と書かれていることから長次郎を南方中国人または交趾人であるとしています。交趾とは現在のベトナムであり、交趾三彩とは、交趾通いの交易船が運んだ中国南部、主に広東附近で焼かれた、緑・黄・紫などの鉛釉を用いた三彩陶器です。
現在沖縄にある「焼締白差(シーサー)屋根獅子」(沖縄県立博物館)は楽焼の「獅子棟瓦」と形態、目的がまったく同じです。このことから「シーサー」と楽焼の獅子陶像は共通の文化から発したと考えることが出来ます。
「獅子牡丹置上縁爪図平鉢」では獅子に加えて牡丹と瓜が描かれています。獅子と牡丹の取り合せはめずらしいものではなく、力強いものと、華麗なものの組みあわせです。獅子も牡丹も中国の図像です。瓜は図から冬瓜と推定できます。冬瓜は東南アジア原産で、中国には南方から、日本には中国からもたらされました。台湾種、琉球種に見られるように南方のものです。種子は薬用にされます。冬瓜の図からも楽焼には中国南部、琉球の影響を見ることが出来ます。
「獅子棟瓦」と「シーサー」の類似は、日本から琉球への文化伝播の結果ともいえますが、数ある「洛中洛外図」などに「シーサー」は描かれていず(注4)、長次郎が琉球と関わりをもっていたと考える方が自然です。
このように見てくると、楽焼は中国南部の海岸地帯や沖縄に深く関わっていることが見えてきす。
その2目次
楽焼から茶碗を除くと、前出の「獅子棟瓦」「獅子牡丹置上縁爪図平鉢」や、宗慶作の「三彩 獅子香炉」(梅沢記念館)、常慶作の「白釉 獅子香炉」(東京国立博物館)などが今日知られています。楽焼には獅子が多いのです。茶碗以外ではほとんど獅子しか製作していないとすらいえます。獅子は日本では獅子舞などで知られるようにごく一般的な霊獣です。しかし獅子からは沖縄の唐獅子陶像である「シーサー」、バリ島の獅子バロン、獅子国とは現在のスリランカのこと、シンガポールの紋章は獅子、などが思い起こされます。日本の獅子は直接的には中国・朝鮮からもたらされたものでしょうが、獅子には東南アジア、遥かな南方の海上をイメージさせます。そのイメージは楽焼に重なってはいないでしょうか。
先に述べたように、また「獅子牡丹置上縁爪図平鉢」に見られるように、楽焼では様々な色を使うことが出来ます。しかし緑楽茶碗や紫楽茶碗は存在しません。赤楽と黒楽だけしかないと云うことは赤と黒が色彩として選ばれているということです。
黒楽茶碗からは現在でも黒を感じさせますが、赤楽茶碗は私たちのイメージする赤色からはほど遠く、赤味を帯びた土色です。黒楽茶碗は黒といえますが、天目茶碗の漆黒とは異なってくすんだ黒です。赤を出すことはむずかしかったのでしょう。にもかかわらずより鮮明に出すことのできる緑などではなく赤にこだわったのは、どうしても赤が必要であったからです。赤楽茶碗・黒楽茶碗からは、近代の色彩の観念とはかけ離れた色彩への意識があるようです。
その2目次
千利休が当時既に産業になっていた陶器ではなく楽焼というどちらかいうとマイナー焼物で茶碗を作ることとしたのは何故でしょう。利休はただ単に楽焼が好みの形を作れるから楽焼を選んだのではないと思います。利休は新しい絶対としての理想を求めていたと考えます(注5)。焼成法が要求する一瞬の精神性が利休の絶対的な精神性とシンクロしたのかも知れません。楽焼が既存の焼物とは関わりを持たない彼方からもたらされたことも大切なことであったと思われます。別に述べる予定ですが、茶の湯には別世界への憧憬を強く感じます。利休は既存の茶の湯意識とは違う新たな別世界を構築しようとしていたのではないでしょうか。そして楽焼のもつ彼方の感覚が、利休の精神の極北としての別世界の意識と合致したのだと考えます。この彼方の意識の中で茶碗の色として赤と黒は選ばれたのです。実は赤と黒は日本古来からの彼方に関わる色彩でした。
つづく
その2目次
注1
FTEAには陶芸についての会議室もあるので不必要とは思いますが、ここでロクロを定義しておきます。ロクロとは軸受けを備えたフライホイール効果を持つ装置で上面が平面円盤上の形態をし、何らかの動力によって回転させ、減衰することはあっても回転を持続する事が出来るものです。何故このような定義が必要かというと、ロクロ作りとは、ロクロの発生する遠心力を形作りに利用するものだからです。手びねりなどで回転する作業台を使いますが、あれはロクロではないということです。参考までに言えば、考古学ではある地域のロクロによる造形活動の確認を、ロクロ成型物の出土だけではせず、ロクロ成型物と車輪(wheels)がセットになっている場合にするそうです。
注2
陶磁器の窯は垂直炎窯と水平炎窯に大別されます。垂直炎窯とは燃料から立ち上がる炎が上に向かっている窯で、西欧の陶磁器の大半の窯、楽焼の窯があたります。窯内の温度コントロールが難しく、窯内の雰囲気は酸化となります。水平炎窯とは燃料からの炎が窯の中を横に走る窯を指します。東アジアの穴窯、登り窯などです。窯内の温度コントロールと雰囲気コントロール(酸化か還元か)は窯の性能が良く、窯焚き職人(戦前まで有田などでは専門職でした)の腕が良ければ安定しました。
個人的な見解ですが、今日登り窯などで作陶している人たちが「最後は炎という自然にまかせる」と発言するのは理解できません。何故なら窯の性能と窯焚きの技術という人間側の問題を自然に転化しているからです。それとも彼らはたかだか五十年くらい陶芸に対する知識で伝統陶芸をしているのでしょうか。確かに炎は神秘的であり、最期は神頼みでしょう。しかし焼成の安定のための窯の改良と窯焚き技術の向上は先人達の絶えざる努力でした。また焼成の結果、偶然に出来た作品、あるいは壊れかけた作品を重んじる美意識は何故あるのかもっと考察されるべきです。
注3
『宗入文書』には初代長次郎の父は飴屋(アメヤ)、母は比丘尼(ビクニ)であると記されています。網野善彦氏(網野善彦著『日本論の視座』、小学館、1990)によれば飴屋は室町時代に中国大陸をその職能の祖を持つという伝承を持ち、事実としても一部の人々が「唐人」とつながっていたとされます。当時の飴屋は「唐紙に書て印判を突」いた「唐土の支証」を持って各地を遍歴する行商人であったとしています。文書に「唐人」との記載があることは飴屋との関わりであると思われます。
注4
1993年2月、日本橋高島屋で「安土城障壁画復元展」が行なわれました。セビリア万博に出品した安土城障壁画を復元したものの展示です。展覧会では同時に参考作品として愛知県の西蓮寺所蔵の「南蛮屏風」が展示されていました。その右隻右端に南蛮寺が描かれ、同じ敷地内に茶室が描かれていました。茶室では茶の湯が行なわれている様子までもが描かれていました。ところでこの南蛮寺の屋根に「シーサー」が描かれています。(『セビリア万博日本館出展 安土城障壁画復元展』カタログ、日本経済新聞社、1993、絵45を参照)
注5
「信長において、われわれは日本の歴史上、もっとも独創的な男に面接することになる。」
「信長が茶の湯に求めていたものは、(秀吉より)もっと厳しく、精神的に深い意味のものであったろう。そんな信長の意思を純粋に持続しようとしたのが、千利休であろう。」
(カッコは泉)(秋山駿著『信長』、新潮社、1996)
目次
3. FTEA講座 茶碗その3