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茶壺を考える

   泉滋三郎. 湘南短期大学編 , 湘南文学8号:177-183, 1995


目次

1. 茶壺とは
2. 壺屋にて
3. 壺の中の別世界
4. 茶は「生」(き)である
5. 「口切の茶事」から
6. 茶壺の見所(みどころ)とは
7. 茶壺の銘
8. 床の間に茶壺を飾ること


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茶壺とは


 銘「橋立」の茶壺についての利休の逸話は有名である。もともとは足利将軍家の蔵品であったこの唐物茶壺は、信長→利休と伝わり、利休切腹に際し秀吉が所望したにもかかわらず大徳寺聚光院に託し秀吉にわたるのを拒んだものである。後に前田家の所有となった。現存するもの(高さ23.6cm)は、『山上宗二記』に「橋立 此壺七斤入、土クスリ、形リトモ言語ヲ絶シタリ」とあることから、大きさの点で本壺(七斤入で高さが40cm位)ではなく、渡壺(わたしつぼ 本壺から取り分けた葉茶を入れる小さめの葉茶壺)とされる。
 茶壺は利休時代では茶器の最上位とされ、特に呂宋壺が最も尊重された。呂宋という命名は当時の東南アジアとの交易の盛んを思わせるが、呂宋壺はルソン島の産ではない。中国南部(広東省・福建省)で作られた船で使う商品輸送用の壺であり、東南アジアで香料・酒などを詰めて運ぶために数多く流通していた物である。実際に使用されている場面としては「南蛮屏風」(南蛮文化館蔵)の中に竹篭で包んだ状態で散見される。現在沖縄の陶器として知られる泡盛を入れる壺は形が呂宋壺にそっくりであり、縄を巻きつけて保護している様子は「南蛮屏風」の中の壺を髣髴とさせる。
 呂宋壺は今日、中国や東南アジアの美術館・博物館には一つとして所蔵されていない雑陶器である。陶磁器として評価すれば、どこにでも手に入りそうな陶土で大雑把にろくろで成型して、白い化粧土と褐色の釉薬をかけて焼成した、これといって特筆すべき技術を使ったとは思えない平凡な焼物である。意匠としては、たまに、きざんだ模様が見られることもあるが、絵は描かれない。釉のむら、釉の流れ具合、窯の中での火のあたり具合による変化などが見所とされ名物茶壺の銘の由来となっている。
 わが国における茶壺は、唐物茶壺の模倣が備前や瀬戸で作られ、その後信楽、伊賀、唐津などで作陶された。絵が描かれることは無く、窯の中で自然にかかった釉と土味が味わいとされている。
 茶壺は室町時代には「褻」(け)の道具として私的な茶会では鑑賞されたが、茶入や天目茶碗のように「晴」(はれ)の道具として書院の棚飾り用いられることはなかった。草庵の茶の勃興とともに正式に鑑賞されるようになり、評価値段も高騰した。茶壺の尊重は侘茶の流行による「草」の思想すなわち、ありふれたもの、田舎びたもの、崩れたものへの指向の表われであろうと考えられている。
 さて茶の保存容器として機能面だけで考えると、壺に入れる必然性は無い。箱でもよければ、筒でもよいこととなる。なぜ呂宋壺のような茶壺が珍重されたのだろうか。茶箱の外側には茶壺の絵が描かれている。またお茶屋さんの看板は茶壺をかたどったものか、茶壺の絵が描かれたものかである。日頃私たちが茶壺に接する機会はほとんど無いにもかかわらず茶壺は茶を象徴している。茶はなぜ壺をシンボルとするのか。壺の象徴性と茶はいかに関わるのか。

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壺屋にて


 沖縄は那覇市内、壺屋という焼物の里を歩いている時のことである。陶器店の店先に、大小の壺に混じって家を型取った高さ50センチ位の陶器が置いてあった。屋根にあたる部分が蓋となっている。何に使うかが判らず店員に尋ねると「死んだ人のお骨を入れるものです」との答が返ってきた。私はその器の伸びやかな風情に惹かれていたので少なからず驚きを覚え、さらに「ようするに骨壺ですか」と聞くと、そうだとのことである。家型の骨入れの脇には沖縄の陶器独特の色彩に彩られた壺型の骨壺もあった。
 陶器といささかの関わりを持っていたものとして自らの無知を恥じるとともに、沖縄では骨入れが堂々と明るい日差しの中で売られていることにショックを受けた。
 私たちは日々の暮らしの中で死を連想するような形象にめったに出会わなくなっている。生活の中で死と死に関わるものは隠されてきた。しかし沖縄では死後に生活する住いが南の強い日差しの中、道端に置かれ売られているのであった。
 壺屋には骨入れの他、沖縄独特の屋根に置かれる魔除としての「シーサー」、泡盛を入れる壺、暗い黄色を基調とし赤、紺、茶色、緑で色づけされた皿や瓶などがある。しかし壺屋の壺とはもともと骨壺のことではなかったか。
 骨入れを選んで買い求めることは、お仕着せの白磁の壺に型どおりに骨を納るのに較べ、死後への思いの深さを感じさせる。死後に「あの世」でどう暮らしたいか、またどう生まれ変わりたいかまでをも気配りして骨入れは選択され購入されている。
 家型の骨入れが死後の住いを直接的に表しているのに対して、骨入れとして一般的である骨壺はなぜ壺なのだろうか。壺であることはただ壺が丈夫で変化が少ない器であるという機能的な意味以上に理由があるように思われる。
 

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壺の中の別世界


 壺の口を見ていると内側の暗がりに、何か得体の知れない不安感を憶えることがある。古代から人々は壺の中に拡がる暗闇に畏敬の念と神秘的な感情をもっていたようだ。縄文土器の壺が口辺部に蛇を配すなど特別の造形を施すのは内容物の呪術的保護と同時に、壺の内部には違う世界があるのではないかという畏れを感じたからではないか。
 河合隼雄氏によれば壺は豊穣を産み出すもの、またすべてを呑みつくすものとして、太母神の象徴となっていたとされる。古代において、壺そのものが神として信仰の対象となった例は多い。壺は死の入口ー混沌への入口ーをもつ器であると同時に、死者が再び生まれでる出口をもった器とも考えられた。壺は大母神の支配する冥界ー混沌とした世界ーとしての別世界を中に蔵する器であった。
 また壷は「甕」(かめ)であり「甕」は「亀」に通じている。「亀」は高松塚古墳壁画の「玄武」に見られるように「北」を象徴し陰の極を表わす。陰の極は「子」であり、「子」の字義は「一」(はじめ)と「了」(おわり)を合わせたものである。すなわち全ての終りであるとともに始りであり、生命の死と誕生を意味する。「亀」である壷は死者が入り新たな生命を育むのに相応しい器である。
 中国の伝統宗教である道教では壺に別世界としての神仙世界がイメージされており、「壺中天」として有名な神仙伝説「壺公」を生み出すこととなる。
 「壺公」の話は「汝南の費長房という役人が、町にやってきた仙人である壺公が日暮れに壺の中に跳び込むを見て、壺公が凡人でないことを知ることとなる。それから長房は壺公を大切にし、長いあいだつくしていると、壺公も長房の誠実さを認めて、自分と同じように壺に跳び込むように指示した。言われたようにやって壺の中に入ると、そこは壺の中ではなく、仙宮の世界で、楼閣や二重三重の門や、二階造りの長廊下などがあり、左右に数十人の侍者がいた。その後費長房は地仙となった」との話である。
 壺の中に入り込むという荒唐無稽の話の中で「壺中天」として、神仙世界である永遠の生命の世界が壺の中にあるとのことである。壺の中に拡がる神仙世界としての別世界との観念は、日本では極楽浄土の意識と習合して理解された。
 「竹取物語」では月へ帰るかぐや姫が壺に入った「ふし(不死)の薬」を残していく話があるが、不老不死の薬との観念に道教の影響を見ると同時に、壺の中に月の世界の薬、すなわち別世界の薬があるとの点で壺と別世界の関係を示している。  
 では茶壺に入れられる茶にはどのような観念が込められているのであろうか。

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茶は「生」(き)である


 抹茶は緑色を呈している。緑は即ち青である。中国の自然哲学である陰陽五行説では「青」は五行の「木」にあたり、五季の「春」である。「木」(き)は「生」(き)に通じ、生命の蘇りと成長を象徴している。すなわち抹茶の緑色からは茶が「生」(き)であり「春」であり、生命の蘇りが込められていると解釈できる。そもそも茶は薬とされてきたが、その覚醒効果と相まって生気を回復する飲み物であり、生命の再生をもたらす不老不死の薬を象徴していたのではないか。天目茶碗などの黒い茶碗に点てられた茶は「黒」が五季の「冬」であることから、冬の中に兆した春を象徴していると考えられる。
 茶の湯が陰陽五行説と深く関わることは、いくつかの事例から証明できる。元禄時代に千利休の門人南坊宗啓の秘伝書から立花実山によって書かれたとされる「南方録」〔墨引〕の項は、書院台子から草庵に至るまで、畳の上における道具の配置は陰陽五行説に基ずく曲尺割(かねわり)の法則が基本であるとしている。さらに戦国時代の茶人が陰陽道に精通していた軍師・連歌師と近い関係があったことからも確認できる。たとえば武野紹鴎は三条西実隆に師事し、連歌師宗碩・周桂・宗牧らと交流し、連歌を指向していた。紹鴎は「大黒庵」と号したが、生年が文亀二年(一五〇二)で干支では「壬戌」である。陰陽五行では壬も戌も「水」にあたり、五色では「黒」であり、号の命名に反映している。連歌師里村紹巴は茶人津田宗及と関わりを持ち、歌論を宗及に講義している。豊臣秀吉の軍師黒田如水は歌道に優れ、千利休に茶の湯を学び、『茶湯定書』を著す程の茶人であった。軍師、連歌師は陰陽五行に通じていたことが知られているので茶人もまた陰陽五行説に精通していたと考えるのが自然である。 
 茶壺の中に詰める葉茶もまた緑色を呈している。すなわち茶壺もまた「生」(き)を孕んだ器ということになる。 

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「口切の茶事」から


 茶壺は陰暦五月に新茶を詰め、木製の蓋をし、それをさらに紙で封印する。陰暦十月に風炉から炉に移り、炉を使い始める「開炉」とともに茶壺飾りをして封を切る。これを「口切の茶事」と言う。茶壺におけるもっとも重要なセレモニーである。
 「口切の茶事」では封印された茶壺という暗い所(陰)で育まれた「生」(き)としての茶が死のイメージを持った冬(陰)に向かう季節に生れ出て、冬に人々に「生」(き)としての春の気配を与えると考えられる。つまり茶壺は陰暦五月から十月まで「生」(き)を孕んでいたことになる。茶壺は茶に象徴される「生」(き)を孕む胎である。このことは先に述べた壺は冥界ー混沌とした世界ーとしての別世界を中に蔵する器であったとの理解に通じている。
 茶が茶壺によってシンボライズされるのは、茶が茶壺によって育まれ茶壺より生まれ出ると理解されているからであろう。
 「口切の茶事」が重要なのは、新茶を飲む喜び以上に新しい「生」(き)あるいは生命の誕生に立合うという意味があるからと考えられる。「口切の茶事」では茶壺の拝見が茶壺を抱くように行われる。一部の流派では茶壺を運ぶときも子供を抱くようにせよとのことである。茶壺を抱くような拝見や運びが行われることは、生まれ出たものを愛でる心の現れでもあると思われる。

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茶壺の見所(みどころ)とは


 拝見では茶壺の見所が見つめることとなる。見所は何を意味しているのだろうか。幾つか代表的な見所から考えたい。
 茶壺には耳のような紐通し用の穴の開いた突起が四つあり、それを「乳」(ちち)という。他の陶器では同様の造形を「耳」(みみ)といい「乳」とは言わない。「乳」は女性を象徴する言葉であり「生」を孕む器に相応しい。
 茶壺には箆(へら)などで付けられた筋目があるが、乳のあたりを「遠山」、下方のあたりを「裾野」と呼んでいる。「遠山」「裾野」という言葉によって茶壺は山とイメージされている。女性を「山の神」というように、山と女性とは象徴的に関係が存在している。山自体が御神体である神社があることや修験道などの山岳信仰から、山は一般に信仰の対象とされた。またお寺のことを「山」とも言う。山には「塚」「墓」との意味がある。「塚」や「墓」は沖縄の亀甲墓(かめのこうばか)に見られるように、死者の再生の場所であり、陰の場所とされ、新たな生命を育む胎であると考えられてきた。茶壺の見所は、茶壺が女性の胎であり、墓など、死と再生の場所であることを指し示していると考えられる。
 茶壺を拝見(拝して観る)し見所に注目するのは、「生」(き)の器であることにとどまらず、茶壺に「あの世」の観念があり、聖なるものとして崇拝すべきものとの理解があるからであろう。

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茶壺の銘


 利休の高弟である山上宗二が書きしるした「山上宗二記」によれば銘「撫子」(なでしこ)の茶壺は「是撫子ト云ハ草ノ名ニアラズ、篠殿イツモ秘蔵シ、子ノ如クサスラレタルニ依テ、撫子ト云也・・」とあり、銘「捨子」(すてご)の茶壺については「東山殿初テ御覧シテ御物ニナル時、能阿彌ヲ召テ、是ホトニ見事成ル壺ニ名ヲ付ケヌハ捨子カトノ玉フ、其御詞ニ依テ則、捨子ト云フ」とある。茶壺が子供と見立てられている。
 「撫子」「捨子」の銘からは茶壺が胎として生まれ出るものを育むものの象徴であるとともに、生まれ出たそのもの、すなわち子供とも解釈されていたと考えられる。
 さらに「山上宗二記」には銘「スソ(裾)野」の茶壺について「此壺ヲ珠光ノ見テ、遠山ノ下ヘサカリタルニ依テ、スソ野ト名付ラル・・・」とあり、銘「深山」について「腰ニ遠山在リ・・・」とある。銘からも茶壺が山とイメージされていたことがわかる。
 茶壺の中に別世界があるとの観念は、茶壺の銘に「松花」「松風」「松島」とあることから理解できる。茶の緑色は「青」「木」「春」であると同時に、松の緑色に通じている。松は蓬莱(ほうらい)を象徴するものでもある。蓬莱は道教でいう東海にある蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三神山の一つで、神仙の住む聖山のことである。庭の池の中島に松を植えるのは、そこに蓬莱としての現世浄土を見ようとしたからである。銘「松花」「松風」「松島」の松は神仙世界としての蓬莱、また浄土を象徴している。
 銘「キサカタ(象潟)」の茶壺については、山形県象潟が松の名所であり、宮城県松島と対で認識されていたので「松島」茶壺と対となって松を象徴していると思われる。
 さらに茶壺に見られる別世界意識は銘「金花」「揚柳」「橋立」などにもうかがえる。「金花」は「金華」であり、宮城県の金華山は弁財天をまつること以外に、その立地条件によって東方海上の理想郷と観念されていたようで、すなわち蓬莱であった。また金は浄土信仰には欠かせない色彩で浄土を表す。
 「揚柳」は揚柳観音の揚柳であり、揚柳観音は花瓶に挿した揚柳を持って水辺の岩の上に座った図として知られている。このような水辺の光景は浄土と観念されていた。
 「橋立」について「山上宗二記」には「此壺ハ丹後国ヨリ出テ、丹後国ニ過タル名物ナレハ、橋立ト名ヲ云・・・」とか「東山殿此壺被召上時ニ、文モ見玉ハズ、先壺ヲ御覧シケレバ、マタ文モミヌアマノ橋立ト云古謌ニテ、壺ノ名ヲ橋立ト付ト云・・・」とある。しかし橋立の橋は浄土への橋であり「天の橋立」は松の名所であったことも意識されていたと考えられる。
 茶壺には蓬莱、浄土などの別世界意識や、聖なるものとの認識があったことを、付けられた銘からも解釈することが出来る。
 もっとも茶壷の銘が常に浄土などの別世界を象徴しているようでもないようである。たとえば銘「四十石」の茶壷について「山上宗二記」は「・・・道拙米四十石トル田地ニ替タレハ四十石ト云、・・・」とあり、銘「寅申(とらさる)」の茶壷については「・・・本(元)ハ天王寺ノ市ニテ買シナリ、天王寺ノ市日ハ寅ト申トノ日也・・・」とあり、随分と即物的な銘もある。

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床の間に茶壺を飾ること

 
 「天王寺屋会記」によると織田信長は天正三年十月二十八日の茶会で床の間に瀟湘八景のひとつ玉 筆「遠寺晩鐘」を掛け、その前に銘「三日月」の茶壺を飾ったとある。また「宗湛日記」によると天正十五年正月の大阪城における茶会で、玉 の「遠寺晩鐘」と「撫子」、「青楓」と「四十石」、「平沙落雁」と「松花」が床の間に飾られたとある。そもそも褻(け)の道具とされ、したがってあまり人前には出さない茶壺がこのように表に出てきたのには、これら権力者の力の誇示との側面もあるが、床の間に掛けものと茶壺の銘の取り合せで理想境、浄土を作り上げようとしたと理解できる。
 床の間に茶壺、掛けもの、香炉、竹花入などを取り合せ、浄土や別世界を作り上げることによって、床の間のある空間(部屋)が意識の上で浄土と一体化し、さらに人々の精神と融合したのではないか。参加者は床の間に作られた世界(浄土)へ一時行くこととなると同時に浄土へ旅立って鬼人となった人々と出会うこととなるのではないか。床の間に道具を取り合せて作り上げられた空間は「あの世」の写しなのではなく、「あの世」そのものと解釈されていたのではないだろうか。
 そもそも茶の湯とは、火宅を逃れて浄土にいたる道としての露路を通り、にじり口で俗界と区切られた清浄な場所(浄土)としての茶室で、「生」(き)としての茶、また聖なるものとしての茶を介して、亡き人々と交歓し、心身を清める儀礼ではなかったか。経済性と利便性が第一義となった近代において、儀礼のもつ死生観についての指向が希薄になり形式化する。過去の様々な儀礼的行事は個人の情緒的価値意識によって評価されることとなった。儀礼の中で象徴的な意味を付与されて使われていた道具は意味を失い、美術館のガラスケースのなかに収められることとなった。
 道具から理解された全体的な思想は消され、まるで価値観を再構築出来ない古代の考古学的遺物のように扱われることとなる。茶壺も例外ではない。


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