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「藤花図茶壷」を考える
泉滋三郎. 湘南文学11号:178-183, 1997.
1. 金森宗和について
2. 藤花図茶壺(MOA美術館)
3. 他の仁清作の茶壺では
4. 仁清の茶壺の示すもの
5. 注
野々村仁清は、江戸時代前期の京都の陶工です。丹波国桑田郡野々村に生れ、清右衛門と称しました。仁清の窯は洛西御室仁和寺門前にあり、仁清とは、号「仁」を仁和寺から賜り、自分の名の清を加えたものです。
仁和寺は、正保三年(1646)後陽成天皇の第一皇子であり東宮であった良仁親王(覚深法親王)の御殿とされました。良仁親王は秀吉に贔屓され、家康と五奉行派の対立の中、即位することはありませんでした(注1)。仁和寺は同じく践祚されなかった智仁親王(注2)が創始者である桂離宮と同様に公家との関わりの深い場所です。
仁清は茶人金森宗和(一五八四〜一六五六)の好みで茶器を作っていたとされます。金森宗和は飛騨の武将金森可重(一五五八〜一六一五)の長男でしたが、慶長十九年(一六一四)になぜか勘当され、その後京都に隠棲しました。
宗和の祖父で、金森家初代の長近(五郎八)(一五二四〜一六〇八)は津田宗及の著した『天王寺屋会記』「宗及自會記」の中に
天正十一年六月
同六月十六日昼 金森五郎八殿 一人・・・
天正十二年三月
同三月二日朝 秀吉様 金森 蜂屋・・・
と登場し、秀吉の茶頭に一人で相伴したり、秀吉と同じ茶会に参加していたことが知られます。また『山上宗二記』には「宗陽肩衝」の所持者として
一宗陽〔紅屋〕肩衝 新田ニ似テ面白キ薬也 飛騨金 森殿
との記述が見られます。
宗和の父、可重の茶の湯については片桐石州(一六〇五〜一六七三)『石州三百ケ條』「茶道三百條 第二巻」に
六 外路次昔ハ無之事
外路次といふ事、昔ハ無之也、利休時分ハ少腰掛な
として待合にせしとなり、金森出雲守可重虎の門の向
に屋敷有之、台徳院様(徳川秀忠)へ御茶差上候時に、
始て待合を作りしと也、是より待合出来始候、外路次
ハ随分何の景気も無之様子にするもの也、外もよく作
れハ内へ入候て同事也、何のせん(詮)もなき也、外
はさらりとしなして、内へ入て気の替るやうにしなす
也、
との記述に見ることができ、千利休以来の武家茶道の流れをくむ茶の湯者と知られます。
金森宗和の今日見ることのできる遺構としては、大徳寺真珠庵の庭玉軒、鹿苑寺の夕佳亭、東京国立博物館に移築された興福寺慈眼院の六窓庵が知られています。また三千院の聚碧園や、禅昌寺(注3)の萬歳洞に宗和が作庭したとの伝えがあります。
金森宗和の周りには、古田織部に茶の湯を学び遠州流の祖となった小堀遠州(一五七九〜一六四七)、後陽成天皇の第四皇子である近衛信尋(一五九九〜一六四九)、第九皇子である一条昭良(一六〇五〜一六七二)、第十五皇子である慈胤法親王(一六一七〜一六九九)、鳳林承章(一五九三〜一六六八)など後水尾天皇(後陽成天皇の第三皇子政仁親王 一五九六〜一六八〇)の文化サロンを形成していた人々がいました。
山科道安の著した『槐記』(注4)にはこれら後水尾文化サロンの人々や金森宗和の茶の湯の考え方が記述されています。
『槐記』には
宗和ノ説ニ、何ニモ形ヲ利休々々ト云へドモ、利休ノ 形ノ今用ヒラレヌ物アリ、強テ用ルハ、通屈ナシト云ベシ・・・
とあり利休を肯定しながら、新しい茶の湯への指向がみられます。
金森宗和は古田織部とともに江戸初期に公家社会に茶の湯を定着させたとされます。その茶風は明るく軽やかで優美で、姫宗和と称されていますが、後水尾文化サロンの好みを示していると思われます。
仁清の作陶した茶器は、侘茶の道具である楽茶碗などと異なり、明るく色彩豊かです。中でも絵の描かれた色絵茶壺は、呂宋壺など茶色や黄土色を基調とした地味な壺と対照的です。仁清作の茶器の意匠は、利休以来の侘茶の道具のそれと大きく異なっているのには金森宗和の好み、さらに公家の好みの反映があると思われます。仁清の茶壺のうち代表的な「藤花図茶壺」について、その意匠を考察し、後水尾文化サロンの好みを具体的に検討してみます。
目次
唐物茶壺の形体を保ち、高さは28.8cmです。口部から胴裾にかけて白濁色の釉がかかり、赤、薄紫、金、銀を使って藤の花が描かれ、薄緑で藤の葉が描かれています。
図像からの考察
藤は古くから日本の文様であり、例えば「洲浜松藤双鶴鏡」(鎌倉時代 伊那下神社)、「松藤文繍箔能衣裳裂」(室町時代)や「松藤蒔絵柱」(桃山時代 都久夫須麻神社)などがあります。藤は松との組み合わせで用いられていますが、「枕草子」に「めでたきもの、いろあひよく花ふさながくさきたる藤の、松にかかりたる」とあるように松と藤を組み合わせた意匠は吉祥慶寿の文様でした。もっとも藤は中国では嫌われた花でした。にもかかわらず、藤を吉祥のシンボルとするのは、王朝時代に栄華を極めた藤原氏の家紋が藤であり、藤原氏に取り入ろうとする人々が、藤をめでたいものと持ち上げた為とされます。
藤は四月から五月かけて房状に咲く花です。日本の古典文学の中では晩春から初夏に咲く花として登場しています。「新古近集」(春の巻2)には紀貫之の「暮れぬとは思ふものから藤の花 咲ける宿には春ぞ久しき」が採録されています。この歌の意図(こころ)は、芭蕉の「くたびれて 宿かるころや 藤の花」にまで続いています。藤は春をシンボライズしています。
藤花図茶壺は、冬に向かう口切の茶事(注5)の頃に、春の藤の花に思いをよせ、春を先取りすることを直接的に図像化したものと考えることができます。ここでは仁清の色絵茶壺のすべてについて述べることはできませんが、現存する仁清作とされる色絵茶壺はすべて春に関わる意匠で飾られています。
色彩からの考察
藤花図茶壺には、白地に赤、薄紫、金、銀で花を描き、薄緑で葉が描かれています。この色の組み合わせには何か根拠があるようです。
日本の伝統的な色の組み合わせのルールに襲色目と呼ばれるものがあります。
有職故実によれば、色彩の階位制度への適用は、推古十一年(六〇三) 聖徳太子が百済の制度などを参考に冠位十二階制によって、色の異なる冠を用いて、朝廷における席次を定めたことに始まります。公家の服装や冠の色彩は、中国の律令体制下での絶対的な観念に基ずく普遍的な色彩意識とは異なり度々変更されました。(注6)
平安時代末期になると、文化的な乱世の中、将来にたいする不安、現実からの逃避のため、復古的な自然への敬神思想ともあいまって、サイクルの定まった自然の風物が、草木のもつ季節的な色彩変化をもとにした配色の組み合わせとして愛でられました。染料となる植物や四季の風物などの自然観を反映し、服装の表地と裏地の色の配色や、重ねて着る衣服の色の配列を襲色目としたのです。衣服のみならず打敷(うちしき)や懐紙、組紐、鎧の威毛などにまで適用されました。
「藤」の襲色目については、平安時代末期の『雅亮装束抄』によれば「四月うすぎぬにきるいろ」の装束として藤は「うすいろのにほひて三しろおもて二がうらあをきこきうすきしろきすずしのひとへ又くれなゐのすずしのひとへ、」(古事類苑 服飾部十六)とあります。前田雨城氏の解釈によれば、五枚重ねて着る衣装のうち、表裏とも、薄紫を上に着ているものから次第に淡くしたもの三枚着て、その下の二枚は表は白で、裏は一枚目を青緑の濃色とし、二枚目を青緑の淡色とする。下着としての単は生糸で織った絹の「すずし」の白か、くれない色(濃いピンク)を着る意味です。つまり色彩としては「薄紫の濃淡」「青緑の濃淡」「白」「くれない」となります。(注7)
藤花図茶壺の花は銀彩などによる濃淡と赤があり、それぞれ「薄紫の濃淡」と「くれない」、葉の色は「青緑」、地色は「白」と見立てることができます。藤図茶壺の絵における色彩は、個人的なセンスによるものではなく、襲色目のルールが生かされていると理解できます。
藤花図茶壺は意匠に藤を用いることによって古典文学の意図と重ねられ、色彩に襲色目を使うことによって有職故実という公家の文化的伝統を主張しています。
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仁清の茶壺には他に「若松遠山図茶壺」(文化庁)、「芥子図茶壺」(出光美術館)、「吉野山図茶壺」(静嘉堂文庫)、「月梅図茶壺」、「龍図茶壺」などがあります。
「若松遠山図茶壺」に描かれた若松は正月、春の象徴であり、桜は春を示すと同時に松との取り合わせが古来愛でられてきました。また松と桜で京の西の嵐山と小倉山が想起できるので、背景に描かれた山は京の人々に現世における西方浄土と理解された嵐山と小倉山と解釈できます。
「芥子図茶壺」に描かれた芥子は眠りの象徴として生命を再生するものとして理解されていました。阿片は世俗の世界からの離脱、別の世界(極楽)で生きることをもたらすものでもあったのです。芥子は五月頃に花が咲くので、芥子の花が描かれている芥子図茶壺の意匠もまた春に通じています。(注8)
「吉野山図茶壺」の吉野とは修験の霊場で、天皇が行幸する場所でした。吉野は聖なる場所であり、吉野は死と再生の空間として考えられてきました。蘇りは壺に入れられた茶を飲むことの意味にも通じます。(注9)さらに桜は蔵王権現の神木で、春を象徴するとともに聖なる木でした。
「月梅図茶壺」における梅と月の組み合わせは、「万葉集」の大伴家持の歌に「雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも」を思い起こさせます。梅は冬の終り、春の始めに咲く花で、生の復活と生命の芽生えを予感させる花です。
「龍図茶壺」の龍は青龍・朱雀・白虎・玄武が陰陽五行説において、春・夏・秋・冬の季節に対応し、東・南・西・北の方位を表わすことに関わり、春の生気の象徴です。
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仁清の茶壺の意匠は利休の目指した侘茶の道具の意匠とはまったく違うものです。侘茶と違っていることをあえて意図したと思われます。侘茶と対比される黄金の茶室(熱海MOA美術館に復元されたもの(注10)に代表される黄金趣味とも違った第三の試みです。
桃山時代までの茶壺は、日常的な壺の中に、別世界の観念、さらに生(き)を孕むものと茶壺見立てました。 ( これに対して仁清は積極的に茶壺に図像を描いています。装飾を施すことは、無地の壺を見立て銘を付け、観念を付与したのに対し、描かれた図像が指し示す現象が意味として重んじられたこととなります。
後水尾天皇の文化サロンでは、公家の文化の正統性と優位性を武家社会に対して示す必要を感じていたのでしょう。村田珠光、武野紹鴎、千利休、古田織部ら武家に足場をおく人々によって展開されてきた茶の湯を受容するにあたって、茶の湯に公家の主張と解釈を加える必要があったと思われます。道具を飾る画題や色彩は和歌、有職故実から取られて表現されたのです。
仁清の茶壺は、茶の湯本来の思想を前提にしながら表現としては利休の侘茶とはまったく違う作品を作り上げています。そこには金森宗和を通じて仁清に伝えられた王朝文学、有職故実の担い手であった公家の文化意識を見て取ることが出来ます。
華やかに描かれた絵という現象からは公家の趣味性を感じます。金森宗和らは公家の伝統文化によって茶の湯の新しい境地を開いたといえますが、利休によって確立した侘茶のもつ絶対的な観念は失われています。侘茶の絶対性の喪失という点で、現代の茶道の源流のひとつは仁清を指導した金森宗和らにあるではないでしょうか。
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1.今谷明『武家と天皇』、岩波新書、一九九三、130p〜132p
2.桂離宮の創始者の八条宮智仁親王は正親町天皇の第一皇子陽光院誠仁親王の第六子として、天正七年(一五七九)に誕生した。天正十六年、豊臣秀吉の猶子となり、豊臣家の後継者とされたが、翌年淀君に男子が生まれたために、この縁組は解消となった。天正十九年、親王宣下を受けて智仁と名のった。
3.禅昌寺 岐阜県益田郡萩原町
4.山科道安は、慈胤法親王の茶の湯の弟子である近衛家煕の侍医で『槐記』は家煕の行状や談話を記したものである。近衛家煕は公家文化の尊貴の観念と、利休の侘茶を統合して新しい公家茶道を生みだしたといわれている。
5.口切の茶事 茶壺は陰暦五月に新茶を詰め、木製の蓋をし、紙で封印する。それを陰暦十月に風炉から炉に移り、炉を使い始める「開炉」の時に茶壺飾りをしたうえに、封を切ります。これを口切の茶事という。
6.拙論『「衣服令」の色彩シンボリズム』神奈川歯科大学、教養課程紀要十四号をご参照下さい。
7.前田雨城『色[染と色彩]ものと人間の文化史38』、法政大学出版局、一九八〇
8.芥子は室町時代にもたらされたものなので、古典文学とは関係がありません。阿片に通じる芥子の花と実が何故、茶壺に描かれたかはさらに検討する必要を感じています。
9.拙論「茶壺を考える」、湘南短期大学編 ,湘南文学8号、一九九五、を御参照下さい。
10.同上