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「絵をおしえる」を考える ーアレテとミメーシスー
泉滋三郎. 上智人間学紀要, 27: 159-179, 1997.
1. はじめに
2. 芸術と教育
3. ミメーシスについて
4. 美術作品とは・・・
5. ハイデッカーは「芸術作品の始まり」から
6. 現代の美術作品は・・・
7. 学校教育において
8. 「絵をおしえること」について
9. 絵は我と汝を意識するものとして在ること
10. 場を共有しているという意識
11. 多様な表現技法に熟知していること
絵を描く経験から、自己の内的なものを外に押し出す、自己表現(expression)としての芸術観に疑問がありました。しかし美術教育の場では、表現(expression)への絶対的な確信があるように思われます。絵を描くことは、対象との対話であり、自己と他者とのかかわりです。絵をおしえることを通して、私たちは我と汝のありようを伝えることが可能ではないでしょうか。
小学校や中学校での「図画工作」や「美術」の授業で絵を描くことが嫌いになった人が少なからずいます。嫌いになった理由を聞くと、小学校の時、一度も絵を誉められたことのなかったとか、中には先生がその子の絵を掲げて「みんな、こうは描かないようにと」と悪い例のサンプルとされたとかです。また中学に入って絵を描くのが嫌いになった人には、うまく描けなくなったとか、先生が何を教えようとしているのかよく解らなかったとかが理由としてあげられます。これらに共通している背景は、表現についてのあいまいな観念と、自己と他者のかかわりの不安です。
絵を描くことや、物を作ることは楽しいことではなかったか、芸術教育について、表現(expression)という観念にとらわれることなく、芸術の本来的な意味に立ち返っての論議が必要です。そこには絵を描くことにおける対象との対話のように、芸術における自己と他者のかかわりがあると思われます。生涯学習までふくめて、芸術教育、具体的には「絵をおしえる」について考察してみようと考えました。
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芸術による教育についてはジョン・ラスキン(John Ruskin 1819〜1900)は「芸術教育論」の中で
描画は、それが大衆に可能な限りにおいて、主として知識を習得し伝達するための一手段と見なされるべきものであるから事物の形態を正確に表現し、その色彩を調和させることができる人は、たいていの場合、言葉で表わす能力よりもずっと大きな記号力と描写力をもっているとは疑いない。(注1)
イタリア語におけるディレットー(diletto)すなわち歓喜と芸術との結合は、ギリシャ語におけるアレテ(αρετη )すなわち美徳と芸術との純粋な結合と、一致しているし、しかも、前者は後者の必然的結果として主に生じたのであることを・・・われわれは理解するようになるであろう。(注2)
と述べ、教育でもっとも重視さるべき分野は、想像力を養い、感覚から人間を変革できる芸術教育です。想像力の豊かな人は、相手の立場に立ってみる能力を有するから、思いやりのある人であると主張しています。
ラスキンは「事物の正確に表現」のための描画を重視しています。すなわち対象の似姿を忠実に写すことです。ラスキンにおける描写とは、表現(expresstion)ではなく、再現(representation)です。ところで写実・模倣のことを、ギリシャ語ではミメーシス(μιμησι )と呼び、再現(representation)と訳されています。しかしミメーシス本来の意味は、事物や現象の表面を忠実に再現するとのことだけではないのです。
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アリストテレスは『詩学』の中で
叙事詩の詩作、悲劇の制作や喜劇の制作、悲劇や抒情詩のもとになるディーテュラムポス詩の技法、またあらかたの吹奏法や弾琴術など、これらすべては一括すればミメーシスすなわち模擬的再現というところに落ち着く。(注3)
として、現象を模倣する意味としてミメーシスについて述べていますが、ミメーシスの本来的な意味については、プラトンが『イオン』において、
ムゥサの女神もまた、まずみずからが、神気を吹きこまれた人びとをつくる。すると、その神気を吹きこまれた人びとを介して、その人びととは別の、霊感を吹きこまれた人びとのくさりが、つながりあってくることになるのだ。すなわち、叙事詩の作者たちで、すぐれているほどの人たちはすべて、技術によってではなく、神気を吹きこまれ、神がかりにかかることによって、その美しい詩の一切を語っているのであり、その事情は、叙情詩人たちにしても、そのすぐれた人たちにあっては同じことなのだ。 (注4)
神は、彼ら詩人たちからその知性を奪い、託宣を告げる者たちや神の意をとりつぐ聖なる人たちを召使として使用しているように、詩人たちをも召使として使用してる (注5)
と示し、詩人が神憑りとなって、神の言葉を模倣し、再現するということに見ることができます。
今道友信氏は『美の位相と芸術』の中で、ミメーシスについて
アリストテレスが、『詩学』に於いて、芸術を模倣(ミメーシス)であると言いつつも、悲劇詩人はただあるがままの人の姿を示すのでは不充分で、あるべきやうな英雄の行いを描かなくてはならない、といふ意味のことを言っているのは、描写の対象がただの卑俗な現実ではなく、或る理想的典型であったことを示し(注6)
とか
詩人は・・・ムーサに奪はれた魂は直接にイデアを見るのではなく、ムーサを介して間接に、ムーサに於いて見るのでなければならない。見て語るのは神であり、つまり詩人は第一に神の語りかけの相手であり、そのやうにして語られ聴きとったものを人の言葉にしてわれわれに働きかけるのが詩人の第二の務めである、といふ意味のことを、『イオン』の中で読むことができる。(注7)
プラトンに於いては本来的な模倣(ミメーシス)の対象は超越的に外在するイデアの方向にあって、芸術的創造とはそのやうなものの形象の再現(representation)としての模写(ミメーシス)てある、といふことである。(注8)
と述べながら、ギリシャでは技術的未熟と、個人的なイマージュよりは国家などの普遍的イマージュが重んじられたので、ミメーシスは「自己の外にある対象の模倣としての再現である・・・」との意味に固定化したと結論しています。その後
キリスト教によるペルソナすなわち個人人格の主体の発見・・・。芸術的制作の対象としてのイマージュは、外界の鏡といふその状態から解き放たれて来るに至り、イマージュはいつしか個人的自我の投影にまで変らうとする。・・・再現の問題に於いても、内的に結晶化 せしめられたところの個人的イマージュの干渉があらはれて来る。
とし、その結果、
個人的イマージュの開花、内的自我の現象的世界への発露、すなわちexpression(表現)であって・・・(注9)
として、西欧における芸術の行為は、古典的正当理念である再現(representation)と、内的自我の確立とともに発生した、現代的理念である表現(expression)とがあるとしています。
さて現代では芸術表現というと疑いもなくexpression(表現)であるとされ、そこに自我の発露があると思いこみすぎてこなかったでしょうか。ミメーシスが本来もっていた、自己の外側にある事物、現象、神の意、イデアの再現としての芸術との観念は、自己(自我)と他者を対峙する関係とは異なり、全体性の中の我と汝のかかわりに連なり、ラスキンのいうように徳につながるのではないでしょうか。我と汝のかかわりを踏まえて、ミメーシス(μιμησι )からアレテ(αρετη )との芸術教育の理念を提起できないでしょうか。
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美術作品は、その描かれた内容を見るものに伝えると同時に、表現する感動を見る者で共有させる。西欧の教会の壁や天井に描かれた絵画や、そこに置かれた彫刻は、その表現する物語性を見る者に伝えると同時に、神の臨在という感動をもたらす。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロを称して「神の手」とされるのは、彼らの技術を賞賛する言葉であると同時に、ギリシャ以来の神の意の模倣としてのミメーシスの観念があるからだと思われます。すぐれた作品はより強く神の臨在を実感させ、それだけ神の意に近いとされたのです。
ルネサンス期の遠近法や油彩画などの絵画技法の開発は、自己と他者を意識したものでありました。自己の外側に拡がる世界をいかに正確に再現できるかの技術的な結果でありました。自己と、対峙する世界という、近世における自我の発生といわれるが、自分の外の世界を忠実に再現できる可能性の中に、神の恩寵を見ていたのではないか。ルネサンス期の美術は、自己の内的世界を外に押し出す表現(expression)よりは、自己の外的世界の再現(representation)であったと思われます。
十九世紀までの客観的な描写は、描く内容は自己の内的世界の表出ではあったが、絵画技術としては外部世界の模倣によっている点で、再現(representation)でありました。そこには真実は、形を模倣することによって共通感覚として他者に伝えられるとの意識があります。再現によって、我と汝の関係を築きうるとの確信があったと思わる。
さて十九世紀の終わり、いわゆる「後期印象派」(Post Impressionism)のゴーギャン、ゴッホで客観的描写表現はおわり、主観的な表現があらわれたとされる。内容を伝える手段としての再現という形式は変化した。外的世界と描く作者、作品と作者、作品と観る者、作者と観る者のそれぞれが変化した。より作者の主観が重視され、「印象(Impression)」との命名とはうらはらに、自己の内面世界を外に押し出す表現(expression)となったのです。作者は作者内部で表現の手法について葛藤する事となった。
絵画内容は次第に現実との対応関係を失った。反対に、絵画内容ではなく、描画手段、素材が前面に出てきた。しかしこの「後期印象派」ではまだ、絵画は感動としての「まこと」を持っていて、我と汝のかかわりを見ることができます。以下はゴッホの「百姓靴」ついてのハイデッカーの論議です。
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ハイデッカー(Martin Heidegger 1889〜1976)は「芸術作品の始まり」の中で、物であることの規定にふれたあと、道具が人間を表象しているとし、道具がまことに何であるかを知るには、哲学理論なしに記述することであるとします。直接の記述が肝要なので、目に訴えること、絵画の表現が意図にかなうとしています。
道具としての百姓靴に着目して、ゴッホの「百姓靴」という作品を取り上げています。ハイデッカーは「百姓靴」の絵は、ただ道具としての靴を描いている以上に
靴という道具のくり抜かれた内部の暗い穴から目をこらしてみつめているのは、労働の歩みのつらさであります。この靴のがっしりした重みのなかに、風がすさぶ畑のひろくのびて単調なあぜをのろのろと歩いたあゆみの根気がこめられています。
この画が語ったのです。・・・靴という道具がまことに何であるかを・・・作品のなかにまことが作られるのです。(注10)
というように絵画の表現によって、「まこと」である感動を見るものに共有させているとしています。
すぐれた芸術作品は作者が見るものに伝えたい感動を持っています。そこには作品を通しての我と汝の関係があります。百姓靴は道具に過ぎません。しかし作者が感じ、見つめ、描くことによって単調な野良仕事のつらさという「まこと」を見るものに感じとらせることが出来ます。そこには作者の世界と、百姓女の世界との我と汝の関係、作者と見るものとの我と汝の関係、百姓女と見るものとの我と汝の関係が、鮮やかに描き出されているのです。
このような感動はどうしたら獲得できるのであろうか。それは対象に対する深い思いからだと考えられる。対象である百姓女、風がすさぶ畑、労働の歩みのつらさに思い起こすことです。対象への深い感動、自己の前に拡がる現実世界に対する深い愛情が作品に「まこと」を付与するのです。作品はゴッホの表現である、しかしまた「まこと」の再現でもあるのです。
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現代の美術作品を見るとき、私たちはある種の断絶観に襲われることがままあります。そこには現代における我と汝の断絶があるように思われます。もっとも二十世紀美術の底流のひとつであるダダイズム(dadaisme)などは断絶そのものをテーマにしたところがあり、理解と共有する場を最初から拒否しています。
二十世紀美術のもう一つの流れである「抽象芸術」では、最初の抽象芸術作品を作り出したとされるワシリー・カンディンスキー (Vassily Kandinsky 1866〜1944)は自らの抽象芸術について「内容と形態」というエッセーの中で
ひとつの芸術作品は、ふたつの要素からつくられる。
内的なものと
外的なもの
内的な要素とは、芸術家の魂の情感であり、それは(物質的音楽的トーンが外部の音楽的トーンに呼応するのと同じ仕方で)、別の人間、つまり受け手のなかに、それに呼応する精神的ヴァイヴレーションをよびおこす。
魂が肉体とむすびついている限り、それは、通常、感情を通じてのみ、ヴァイヴレーションに感応し、そして、非物質的なものから物質的なもの(芸術家)への、そして物質的なものから非物質的なもの(観衆)への橋の役割をする。
情感 → 感情 → 芸術作品 → 感情 → 情感
芸術家の精神的ヴァイヴレーションは、従って、ひとつの表現手段として、物質的形態が理解しうるものであることを発見する。この物質的形態とは、第二のもの、すなわち、芸術作品の外部要素である。
ひとつの芸術作品は、不可分に、必然的にそして不可避に、内的ならびに外的要素、すなわち、内容と形態との環状的結合である。 (注11)
と述べています。「物質的形態」によって「芸術家の魂の情感」が、観るものの「精神的ヴァイヴレーション」を呼び起こすというのだが、どうでしょうか。具体的には「赤い色彩は作者と観者に共通したイメージなり感動を引き起こす」というわけです。難しいことだと思われます。カンディンスキーには作者と観者という、自己と他者との意識があったが、純粋に表現であり、外的世界の再現をみることなく、全体性の中の我と汝のかかわりは失われているように思われます。
現代の極私的な表現に陥っている美術作品では、他者(世界)があっての個人という前提での、個の表現ではなく、無原則な他者(世界)を持たない個の表現とみられる。個の表現が共有すべき場なしで提示されています。もはや理解とか、感動の共有という視点がなく、我と汝のかかわりは解体しています。
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学校の美術教育の中で表現(expression)と再現(representation)はどう位置付けられてあるでしょうか。またこの違いに深くかかわる我と汝のかかわりについてはどうでしょうか。小学校から高校まで美術教育の指針を基本的に知る意味で「図画工作」「美術」の学習指導要領の示すところを見てみる。以下にいささか長いが、学習指導要領の目標だけをあげてみました。
小学校「図画工作」
1.目標
表現及び鑑賞の活動を通して、造形的な創造活動の基礎的な能力を育てるとともに表現の喜びを味わわせ、豊かな情操を養う。
2.各学年の目標及び内容
第1学年及び第2学年
@材料をもとにした造形活動の楽しさを味わい、材料から豊かな発想をして、進んで造形活動が出来るようにする。
A表したいこと、つくりたいものを自分の表現製作の方法でつくりだす喜びを味わうようにする。
Bかいたり、つくったりしたものを見ることに関心をもち、その楽しさを味わうようにする。
第3学年及び第4学年
@材料から豊かな発想をしそれを生かす体験を深め、材料に対する感覚などを高めるとともに、見方や表し方に関心をもって工夫して表し、進んで造形活動ができるようにする。
A生活を楽しくするものなどを用途や美しさ、つくり方などを考えてつくり、それを使う楽しさを味わい、デザインの能力や創造的な工作の能力を伸ばす。
B友人の作品や身近な造形品のよさや美しさなどに関心をもって見ることができるようにする。
第5学年及び第6学年
@造形的な見方や感じ方を深め、想像力を働かせて主題の表し方の構想を練り、技法などを工夫して表し、造形的な創造表現の能力を高める。
A生活を楽しく豊かにするものなどを、用途や美しさを考え構想を練ってつくり、デザインの能力や創造的な工作の能力を高める。
B造形作品などを進んで鑑賞し、そのよさや美しさなどを感じ取り感性を高めるとともに、それらを大切にすることができるようにする。
中学校
芸術
目標
芸術的な能力を伸ばし、美に対する感性を高めるとともに、生涯にわたって芸術を愛好する心情を育て、豊かな情操を養う。
美術
美術の創造活動を通して、美的体験を豊かにし、表現と鑑賞の能力を伸ばすとともに、美術を愛好する心情を養う。
美術
美術の創造活動を通して、美的体験を洗練し、表現と鑑賞の能力を高めるとともに、美術についての理解を深め、美術を愛好する心情を育てる。
美術。
美術の創造活動を通して、表現と鑑賞の能力を一層高めるとともに、美術についての理解を深め、美術文化を尊重する態度を育てる。
高校
美術
目標
表現及び鑑賞の活動を通して、造形的な創造活動の能力を伸ばすとともに、創造の喜びを味わわせ、美術を愛好する心情を育て、豊かな情操を養う。
第1学年
@造形的やよさや美しさなどを感じ取り、想像力を働かせて、主題を表現する能力と態度を育てる。
A目的や条件に応じて豊かな発想をし、構想を練り、デザインし制作する能力と態度を育てる。
B自然や造形作品を鑑賞し、そのよさや美しさなどに関心をもち、深く味わう能力と態度を育てる。
第2学年及び第3学年
@造形的やよさや美しさなどを深く感じ取り、想像力を伸ばし、主題を表現する能力と態度を育てる。
A目的や条件に応じて豊かな発想をし、用と美の調和を理解し、構想を深め、デザインし制作する能力と態度を育てる。
B自然や造形作品を鑑賞し、そのよさや美しさなどを深く味わい、美術と人間のかかわりに関心をもち、主体的に鑑賞する能力と態度を育てる。
第2学年
@造形的やよさや美しさなどを深く感じ取り、想像力を伸ばし、主題を表現する能力と態度を育てる。
A目的や条件に応じて豊かな発想をし、用と美の調和を理解し、構想を深め、デザインし制作する能力と態度を育てる。
B自然や造形作品を鑑賞し、そのよさや美しさなどを深く味わい、美術と人間のかかわりに関心をもち、主体的に鑑賞する能力と態度を育てる。
以上から指摘できることは、小中高の各学校で指導の指針となる、学習指導要領では製作においては鑑賞においても個々の本人がどうすべきかは記述されていますが、個人が他者にどうかかわるかよく解りません。「造形活動の楽しさ」「豊かな発想」「自分の表現製作」「関心をもって見る」「創造表現の能力を高める」などの「表現」についての表記が多く見られるが、「表現」が再現(representation)なのか、表現(expression)なのか解らないのです。なによりも芸術活動の主体が自我としての個人なのか、自己の外側にあるイデアなり、現象なのかが不明なのです。結果として自己と他者をどう位置付けるかが曖昧になっています。
さらに学習指導要領は個人の活動を示しており、他者とのかかわりでは語られていません。表現の内容や感動を伝えるとの指導が指示されていません。個性の偏重があり、共有する場でお互いの理解を前提として美術に関わるとの視点がないのです。表現や鑑賞についての曖昧さは自分だけの世界を他者に押しつけたり、独善的な描法や解釈を生みかねない。「主題を表現する」とあるが、自己の内的世界からわき出る主題なのか、霊的なものを含めて、自己の外部世界とのかかわりからの主題なのかが問題なのです。我と汝のかかわりからは、二者にとっての外部世界を想定できる再現(representation)からの視点が大切であり、共に生き、共通の感動について考慮する必要があると思われます。それには再現(representation)と表現(expression)との区切りを明確にし、使い分け、自己にとっての内部と外部とを常に意識した指向が必要です。
目次
絵をまなぶ立場に立ったとき、私たちは白い画用紙なりキャンバスを目の前にして、絵を描くという行為以前に、どういうスタンスで居ればよいのだろうかという不安感におそわれる。絵を描くという行為が「表現」することとして自明のこととされていて、絵を描くときの気持ちの問題が顧みられていません。絵をおしえる立場に立つとき、まず受講者を安心させることが大切です。年長者であれば、今までの美術教育で刷り込ませたことがもたらす「こわばり」から解放する必要があります。そして安心感や「こわばり」からの解放は個人の感性云々にあるのではなく、知性から可能です。
目次
最初に必要なのは、絵とは何であるのかについて教えられる立場の人々に理解させる必要があります。自己の内面世界を押し出すものとしての表現(expression)と、事物、現象、イデア、霊的な存在など、自分の外部にある存在を写し取る再現(representation)とが、いわゆる「表現」にはあることを説明します。このことは、表現するとの行為がもたらす重圧から解放するために大切なことです。
ただ何気なく風景とか静物とかテーマを設定していることがよく見られます。屋外の何となく絵の描けそうな場所にゆき、「さあ描きましょう」と指導者が叫んでいます。これでは受講者は今までに知り得た知識から、いかにも風景画らしいと他人に思われるであろう絵を描こうとする。まずテーマを探させよう。その場所に自分がテーマにすべき対象はあるのか、すなわち自己の模索です。もしその場に対象がなければ、その日描かなくてもよいと伝えましょう。静物画であれば、指導者が対象を準備することとなりますが、おしえる立場の人は、受講者に、私がなぜこの物体を選んだかについて説明しよう。私と物体とのかかわりの告白です。このことが指導者と受講者のかかわりを明らかにするのです。
対象が定まったら現象を再現することとするのか、事物に自己の内面世界を投影して事物の見えに変更を加えるのか、受講者に考えてもらいます。教えている状況では常に、私と共有する場にいるあなたとしての我と汝、ともに同じ対象に向かって製作している仲間同士としての我と汝、作品を通してのあなたいう作者と、見るものとしての他者の存在、という我と汝があると説明します。
対象が何であれ、対象と対話するように伝える。下絵として絵を描く行為も対話です。
目次
指導者は常に共に絵を描いている人々と同じ場所にいると自覚すること。同じ場にいて、共通の目的をもっているとの姿勢を明確しに、感動を共有できうるとの安心を与え続けること。
普通の人にとって、技術的に自信のない絵を描くという行為はもともと勇気を必要とします。自分も勇気が無くくじけそうになった体験談や、勇気なくしては絵が描けないと表明して、勇気を持とうと発言して、あなたと私は場を共有しているのだと理解させます。この際に先に触れた絵を描くことが、自己の内的世界を外に押し出すものとして表現(expression)だけではないことを説明し、受講者の重圧を解き放してやることも大切です。
講評などの機会には、描かれた作品から、共感として伝わることを率直に表明します。作品に対する思いやりをもちながら、共感として伝わらなかったことも表明して、改善可能な失敗であると指摘することが大切です。ともすると表現という意識が強く働き、失敗は自我の傷であるとの思いこみがあるので、そうではなく自己の外部世界の再現からの立場を理解してもらいます。
指導者は絵を描いている受講者が、対象に対してどのような感動を持っているかをすばやく知る能力が求められます。指導は言葉で行われるので、描かれている作品から指導者が感じたものを適切に言葉にし、受講者との対話を通して対象に対する感動を知っていくことが出来ます。
目次
指導者は受講者に対して基本的な表現技法について指導するが、それに留まらず、個々の受講者特有の表現手段の「くせ」を的確に把握し、それに見合った表現技法をアドバイスできるようします。受講者には手慣れた人、不慣れな人とさまざまなので、画一的な指導法に固執することなく、受講者の感動と連動して、どのような表現手段が当該受講者に適切であるか、先の対話と関連づけながら模索する必要があります。
例えば、水彩画の中にも多様な表現技法があり、指導者は的確なアドバイスができるように技法に熟知している必要があります。また受講者の表現手段の特徴から、その時点で使っている表現技法を越えてアドバイスできると良いです。例えば、水彩画の指導をしているのに、受講者がその絵の具の取り扱いから油彩画が適切であると判断された場合などです。
絵を描くことは本来的に我と汝のかかわりでありました。ミメーシス(μιμησι )からアレテ(αρετη )を美術教育の基本とし、芸術による人間教育が可能であると考える。表現(expression)だけの美術教育ではなく、自己の外部世界の忠実な再現から、共有する場のもつことができること、さらには我と汝のかかわりについての理解が可能であると考えます。
注
1.ジョン・ラスキン著「芸術教育論」内藤史朗訳、151p、
明治図書出版、1969
2.ジョン・ラスキン著「芸術教育論」前掲書、153p
3.「アリストテレス全集17」今道友信ほか訳、17p、1447a16、
岩波書店、1972
4. 「プラトン全集10」北嶋美雪ほか訳、128p、533E、岩波書店、1975
5. 「プラトン全集10」前掲書、130p、534D
6.今道友信著『美の位相と芸術』、181p、東京大学出版会、1971
7. 今道友信著『美の位相と芸術』前掲書、183p
8.今道友信著『美の位相と芸術』前掲書、184p
9. 今道友信著『美の位相と芸術』前掲書、187p〜191p
10.M.ハイデッガー著『芸術作品のはじまり』菊池栄一訳、31p〜43p、理想社、1970
11. 瀬木慎一著『抽象芸術論』、35p〜37p、昭森社、
カンディンスキー「内容と形態」一九一〇〜一一、オデッサ、キエフ、ペテルスブルグでひらかれた「サロン 2・国際美術展」のカタログに掲載されたエッセーより。
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