「千と千尋の神隠し」はアウディのセダンに乗って萩野家が新居(郊外の高台にある)に引っ越す途中の場面から始まる。
宮崎駿のアニメ映画では車がひとつのアイテムとして登場してきた。「カリオストロの城」ではクラリスが乗っていたシトロエン2CV、「紅の豚」ではジーナが運転手付きで乗っているイスパノスイザなどだ。また「トトロ」では冒頭で草壁家が引越しの荷物とともにオート三輪(東洋工業製 ?)でやってくる。車好きにはなかなか楽しいが、それぞれの車には意味が付与されているように思われる。
「カリオストロの城」のシトロエン2CVは、クラリスの趣味の良さと慎み深さを示すとともに、この物語の舞台が一九六〇年代から七〇年代にあることを暗示している。「紅の豚」の一九二〇年代と思われるイスパノスイザは、ジーナという女性が、ロールスロイスに乗る人々よりも上流の階級に属する人であることを示している。彼女は成金ではなく、社会に対して責任を持つことを自覚した伝統的な貴族なのだ。「トトロ」のオート三輪は、一九五〇年代のまだ貧しかったころの日本を示すとともに、草壁家の清貧さをも示している。
では「千と千尋の神隠し」のアウディは何を意味しているのだろう。アウディはメルセデスベンツ、フォルクスワーゲンなどともにドイツ製乗用車である。最近では各メーカーが高級車から大衆車まで揃えているが、メーカー名すなわちブランドイメージはなかなか変化しないものである。このドイツの三社のそれぞれのブランドイメージは、ベンツが高級車、フォルクスワーゲンが大衆車であるのに対して、アウディは中流から中の上くらいの階層をイメージさせる車ではないだろうか。そうしてみると、このアウディを運転している萩野家のお父さんは世の中である程度の成功を収めた人物と想起することが出来る。そして今、この家族は郊外にちょっとした新築住宅を持つことが出来るのだ。
萩野家の一人娘の千尋はこの引越しに乗り気ではないらしく、後部座席でふてくされ、寝転がっている。周りにはランドセル、引越し先ですぐ使うために紙袋に入れられた食器、最後に身の回りのものを詰めたのか、封のしていないダンボール箱、来る途中に食べたのか蓋の開いたチョコレート、魔法瓶などがある。千尋は草色と白のトレーナー、かすれた赤のスカート、ピンクの靴下に黄色いスニーカーを履いている。お腹の上にはついさっき貰ったばかりの「ちひろ元気でね」と書かれたカードを添えられたピンクのバラの花束がのっている。バラの花束からは花びらが数枚車内に散っている。
それにしても彼女は今までの宮崎作品の中では見ることのない、ぶすっとしてふてくされたキャラクターを持っている。クラリスのように清純ではないし、ナウシカのように凛としていない。キキのように溌剌としていないし、フィオのようにおてんばでもない。この千尋から読み解けることは何だろうか。
正木晃は「はじめての宗教学『風の谷のナウシカ』を読み解く」の中でナウシカの着衣が最初は淡い青で、終末では濃い青であることを指摘し、さらに「この物語の二大中心がナウシカと王蟲だ。その両者が、ともに青をシンボルカラーにしている事実は重い。ナウシカの普段着と王蟲の普段の目の色が淡い青で、ナウシカが言い伝えのヒロインとして再生する場面における服の色、および王蟲の大切な体液の色が、共通して濃い青、ということになる。そこには、見事な対応関係がある。」 と述べている。ナウシカの着衣の色彩が物語の本質に深く関わっていたのである。
さて千尋の着衣はと見ると、あまりにも普段着であり、そこには何もない。色彩だけとってみても、その後千尋が千として働くことになる「油屋」の客、ハクや湯婆婆、働くものたちの着衣の意志のある色彩感とはまったくちがっている。彼女には、簡単な別れのセレモニーで形ばかりにもらった花束とともに、曖昧で当り障りのない日常性しかない。この千尋が示すのは、この家族が本当は退屈で何もないというというものである。それは「トトロ」のオープニングでオート三輪に乗った草壁家の溌剌としたお父さん、メイとサツキとは随分と違う。草壁家のお父さんは、お母さんの病気という困難を抱えながら、考古学者として、忘れ去られたものに想いをはせ、大きな楠とかつては古墳があったと思われる神社のある、民話的な家に引っ越そうと明確な意思を持っている。対して、萩野家は新興住宅地の新築一軒屋という、パステルカラーで覆われた、そこで生きる人々の時間を蓄積せず、新築時からただ古びるだけの家に、何となく引っ越そうとしている。
萩野家の皆は途中道に迷い、石の祠や苔むした石仏がごろごろと転がる砂利道を走り抜ける。千尋は不安になりながら、この映画で初めて好奇心を発揮し、小さな石の家の群れを指して「あれは何? 」と聞く。お母さんが「石の祠、神様のいる所」とぶっきらぼうに答える。お母さんはそんな因習的なことには興味はないわと態度には出すが、まだ過去の記憶を留めている。すると石の神像があり、得体の知れない建物に行き当たる。どうもその建物はお父さんの観察によるとテーマパークの残骸らしい。お父さん、お母さんと千尋はその建物(トンネル)を潜り、「異界」へ迷い込んでいく。いや目的地の新興住宅地がはるかに見え、鬱蒼とした林を車で抜けるあたりから、この家族は日常を逸脱してしまったのかもしれない。
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トンネルのむこうには巨石文化の遺跡のような、うち捨てられた野仏の群れのようなものが点在する草原が広がり、その向うにキッチュなテーマパークの残骸のような不思議の町がある。全てが古臭く卑俗で、東アジアのどこかのようではあるが国籍不明である。このあたりの情景は、方向性は違うが新横浜の「ラーメン博物館」を思い起こさせる。千尋は不安になるが、お父さんとお母さんは美味しそうなにおいに惹かれて町の中にわけ入り、一軒の中華料理の屋台とおぼしき店に入り、結果豚になるまで食の欲望を満たすことに走り出す。千尋が不思議の町にさらに迷い込むと、町の一番奥に突き当たり、橋を渡った先に湯屋「油屋」がある。
ここは人間が来てはいけない所らしい。存在の許されない千尋はだんだん透明になっていくが、ハクという青年の姿をした神様に助けられる。ここで生き延びるには「働かせてください」と宣言するしかないことを、ハクにそこへ行けといわれたボイラー室の釜爺に知らされる。
千尋は湯婆婆の前で日常生活では決してした事のない自己主張「ここで働かせてください」と言い続ける。幸運にも(不幸にも)新米の湯女になれた千尋だが、湯婆婆に千と名前を変えられ働かされることとなる。名前を失うことは自分を失うことであり、元の自分に戻れないことだが、この名を剥奪され、奴隷のように働かされるとのことには女性における自分の発見の過程があるように思われる。
三浦雅士氏は「昔の女性は自分の箱、『おはこ』をもっていた。自分で自分を確かめられるわけです。逆説的な話ですが、自分が自分を所有するためには、自分が一回他人にならないといけない。極端にいえば奴隷にならなければならない。両親のであれ、主人のであれ。そのうえで、それを取り返すようにして自分自身になる。おそらくこれはまず人間の身体の問題としてあっただろうと思います」 と述べている。たとえば家庭の中で母親から有無を言わせず、家事を手伝わされたり、何かの団体(学校のクラブ活動など)でただやみくもに訳もわからず活動したりして、目の回る忙しさのなかで、自分が自分でないような体験を通してのみ自分を確かめることが出来るとのことである。
千が「油屋」で働くようになった当初は、どう動いたらよいか判らず、身体の動きがぎこちなく、腰が引けている。釜爺やハクや先輩のリンに助けられてやっと何とかやっていけるようになっていく。そこには千(千尋)が自分で自分を確かめことが出来るようになる不安の過程が表されている。
女性が『おはこ』、すなわち自分の持ち物を入れておき、いつでも確かめられる様になるには日常的な試練でよいはずだが、この物語の場合は「異界」が想定されている。宮崎駿は「かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない」 ような日々の中では「生きる力」の獲得ともいうべき試練の場はない、といいたいのかもしれない。
「千と千尋の神隠し」ではさらにカオナシなどが登場し、千(千尋)の冒険譚がさらに続くが、ここでは風呂について考えてみたい。
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「油屋」は八百万の神々が疲れを癒しにくるお風呂屋さんである。そこには大根の神様であるおしらさま(東北地方にある「おしらさま」は馬の姿をした農神であり、細い棒の上部に馬の首を削りだしたものに幾重にも布を重ねて巻きつけ、ちょうど棒の先に大きなテルテル坊主が付いたような形となる)、社員団体旅行のような皆同じ面をした、春日さまの御一行、秋田県男鹿半島の来訪神である「なまはげ」からイメージしたとされるおなまさまなどがやってきている。江戸時代の銭湯がそうであったように、「油屋」はただの風呂屋ではなく湯上りに湯女たちを相手に遊興するところでもあるようだ。湯屋で風呂に入り、湯上りに飲んで食べて遊ぶことによって疲れを癒し、さっぱりする。この癒しさっぱりするとのことには、蘇りと再生の観念がありそうである。
特に千が相手をすることを押し付けられた、オクサレさまはヘドロまみれであらゆるゴミと汚れを身に付け、湯屋のスタッフ皆に嫌われ避けられている。しかし千の必死のサービスと湯屋の皆の協力で、ヘドロにまみれた自転車など、現在の川が底にためているであろう、ありとあらゆる汚れを取り去ると、翁の面の顔を持つ白蛇という高貴な河の神さまだった。風呂に入ることによって汚れを払い蘇り再生したのだ。
オクサレさまは丸いカマドのような風呂に入っている。五右衛門風呂以外にはあまりお目にかかることのない丸い風呂の形は竈であるとともに甕、壺を想起させる。壺は再生を願われた器であるが 、湯、壺そして蘇りは、説教節などで知られる「小栗判官」の物語を思い起こさせる。
説教節「小栗判官」は都の名家の出である小栗判官正清が、女性の姿をした大蛇と深い契りを結んでしまったとの噂で常陸の国に追放されることから始まる。そこで相模の国の代官横山大善の娘、照手姫と強引に一緒になる。横山一門は怒り、様々な困難を仕掛けるが、小栗判官は乗り越えてしまう。そこで横山一門は計略を立て、小栗と従者を酒席に誘いだし罠をしかけて毒殺してしまう。毒殺された小栗判官は、閻魔宮にて修羅道送りの裁きを受けるが、従者たちの嘆願による閻魔大王の裁きによって、娑婆に蘇るが骨と皮で目は見えず、話すことも出来ない。
閻魔大王に小栗判官を託された藤沢の御上人は、この骸骨ともいうべき人物を熊野峯の湯に入湯させて蘇らすため、餓鬼阿弥と命名の上、土車に乗せて引き出した。土車は東海道と東山道を西に引かれてゆき、美濃の国青墓の宿にいたる。そこで常陸小萩と名前を変え、死んだ夫に操をたてた故に過酷な労働を強いられていた照手姫と出会う。小萩は放置された土車を見るに見かね、亡き夫の供養にと、餓鬼阿弥に変わり果てた夫を、そうとは知らずに五日の間、大津まで引き続けて行く。
ついに餓鬼阿弥は熊野本宮の峯の湯に着き、壺湯に入浴することとなる。「一七日、お入りありば、両眼が明き、二七日、お入りあれば、耳が聞こえ、三七日、お入りあれば、はやものをお申しあるが、以上、七七日と申すには、六尺二分、豊かなる、もとの小栗殿とおなりある」 となる。小栗判官は峯の湯の壺湯で再生するのである。その後は目出度し目出度し、との物語である。
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手におえない悪党でもあった小栗判官が殺害され、閻魔大王の裁きで娑婆に戻り、骸骨のような姿で道を引かれ、やがて古くから根の国とされ、死と再生に関わりを持つとされたが故に巡礼の地とされた熊野で、まっとうな人間として蘇る。このことは千尋が異界へ迷い込み、過酷な試練を経て、少しまともな女の子となって現実に戻っていく「千と千尋の神隠し」の物語とどこかで繋がっていないだろうか。
この物語は千尋の成長譚だけではないだろう。「油屋」の八百万神の客たちや、従業員が持つそれぞれの楽しくも不気味なキャラクターを楽しむだけでもいいだろう。しかし題名の「神隠し」には重要な意味がある。小松和彦は「私たちは『異界』を捨てたのである。すべてのことを人間社会の論理・因果関係のなかで説明できると判断したのである。私たちは神隠しを失ってしまった。『異界』を失ってしまったのだ。ということは『通過儀礼』や『母胎回帰』『母性思慕』『始源の時の回帰』といったことも失ってしまったということになるだろう。」 と述べている。
不思議の町に迷い込めるのは十歳の子供だけになったのかもしれない。私たちは「異界」の共同幻想を失い「かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常」に流されているだけなのだろうか。
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