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粟と鶉の図像表現について

   泉滋三郎. 神奈川歯科大学基礎科学論集. 19:17-23 , 2002.

目次

1. はじめに
2. 陶磁器に描かれた粟鶉図
3. 絵画に描かれた粟鶉図
4. 粟と鶉の示すもの

はじめに

長野県北巨摩郡須玉町上津金にある海岸寺の観音堂には庇に向い龍、正面欄間上部に粟と鶉の彫り物(写真1)がある。江戸時代末期に諏訪の名工立川和四郎富昌(注1)(二代目和四郎 一七八二〜一八五六)の作である。堂の周囲の欄間部分には粟と鶉以外にも十二支や数々の縁起物が、まるで西欧のバロック期の装飾過多な彫刻のごとく彫られている。その観音堂正面上部というもっとも重きをなすところに置かれた彫り物が粟と鶉なのである。向い龍、七福神や十二支がよく知られたものであるのに対して、粟と鶉の取り合わせは今日ではあまり知られていない。
鶉の図像は中国南宋時代の伝李安忠筆とされる「鶉図」(国宝 東京・根津美術館)や、清時代の康煕三三年(1694)の作と記録される八大山人筆の「安晩帖」(重文 京都・泉屋博古館)に描かれたものが知られている。しかし粟と鶉の取り合せの図像は中国絵画の中に見出すことは出来ない。
粟鶉図の解説では「粟鶉がよく文様意匠として用いられるのは、中国絵画、中でも宋、元画の影響以降である」(注2)とか「粟が文様意匠に用いられるのは、中国絵画、中でも宋、元画の影響以降である。粟と鶉の組み合わせが圧倒的に多い」(注3)とされているが、知り得る限りの中国絵画の画集を調べてみたが、粟と鶉の図像を見つけることは出来なかった。また中国美術を専門とされる近藤秀美氏によると中国では粟を描くことはないとのことだった。
粟鶉図の解説ではさらに「中国明代末に刊行され日本でも流布した『八種画譜』などの画冊の図柄を転用したものであろう」(注4)ともされているが、『八種画譜』(注5)には粟と鶉の組み合わせによる図柄は存在しない。これらのことから中国絵画からの引用や『八種画譜』から粟鶉図が導き出されたとのことは、いずれも事実ではない、と思われる。わが国の絵画や陶磁器に描かれる図像には中国絵画の影響が大きいといえるが、例外もあることに留意する必要がある。
粟と鶉の取り合わせを考えるとき、そこには竹と雀のような軽やかさも、梅と鶯のような華やかさも感じられない。粟は今日では穀物としての地位をほとんど失っていて、眼にすることすらなくなってしまった。鶉はその地味さゆえ鶉衣といえば、つぎはぎした衣服のことであり、鶉の床といえば、むさくるしい臥床のことである。粟と鶉に華やかなイメージを持つことはできない。しかしそこには今日では失われた意味が込められているようである。
粟と鶉は縁起物として彫物にされたり図像として描かれたりしたのであろう。今日ではその背景が判らなくなった粟と鶉の図像を調査し分析することによって日本人の自然観、ひいては形而上の観念を析出することが出来るのではないだろうか。ここでは陶磁器に描かれた粟鶉図と土佐派の土佐光成の「粟鶉図」ついて考察する。
目次

陶磁器に描かれた粟鶉図

陶磁器で粟と鶉は十七世紀後半から十八世紀にかけて柿右衛門様式や古九谷様式の色絵磁器などに描かれている。すでに柿右衛門様式の「色絵粟鶉文八角鉢」(MOA美術館)について考察した。(注6)
その中で、柿右衛門様式の色絵磁器が初期には中国景徳鎮民窯の影響を受けているが、その後描かれるテーマや表現が独自の様式を獲得していったことについて言及した。描かれるテーマについては、中国陶磁の鳳凰や龍といった中国の形而上の観念を表したものや、花鳥図でも文様として様式化したものから、柿右衛門様式では現実感のある花鳥や秋草が描かれるように変化していった。また表現の形式では、中国陶磁が図像や文様が器全体に一様に描かれるのに対し、図像が器の一部に描かれ、空白(空間)が広く取られ、強く奥行きを意識した表現となっていると指摘した。
これらから柿右衛門様式は中国の形而上の宇宙観を意識したものから、日本人の自然観を前提とした、現世浄土意識を表現するものになっていったとした。具体的には「色絵粟鶉文八角鉢」(MOA美術館)について、縁に赤で唐草文が配されているが、中に描かれた絵を区切るものとはいえず、器全体は濁手の白濁色をなしており、器の内側右寄りに緑、赤、赤黄、黄色で粟と鶉が二羽描かれていると指摘し、その図像について中国陶磁にある龍や鳳凰のような形而上の図像からは遥かに遠く、また太湖石と花鳥図のような神仙世界を意識した図像とも大きく異なっていて、日常的な現実を強く意識させるものであり、そこには日本古来からの信仰に見られる現世浄土意識があるのではないかと論じた。なお同様の作品が佐賀県立九州陶磁文化館にも存在し、柿右衛門様式では粟と鶉をテーマとした作例が例外でないことが確認できる。粟と鶉を図像とした作品は古九谷様式の色絵磁器にも見ることができる。

古九谷様式 色絵粟に鶉図大皿(石川県立美術館)

径が三十・八センチある大柄の皿である。現在では皿は実用的なものと考えられているが、このような皿は鍋島様式の磁器がそうであるように食を供するための器とは考えられない。何らかの意図をもって図像の描かれた装飾品と見るべきであろう。
皿の縁部分には八稜形に区切られた中に紺青と黄の七宝文と緑彩に卍の入った四方襷文を交互に組み合わせて描かれ、見込み部分には紫の鶉のつがいと黄と緑で彩った粟の穂が描かれ、黄・紺青・緑・赤・紫の五彩で草花と地面、左上に赤で雲が描かれている。二羽の鶉は一羽が地面に落ちた粟粒をついばむように、くちばしを地面に付けているの対して、もう一羽はうずくまる姿勢から眼を上方にやっている。その視線の先には黄色で描かれた粟の穂が大きく垂れ下がっている。
このような図像表現は中国陶磁では見ることが出来ず、また日本の他の磁器様式の中にも見ることは出来ない。先の柿右衛門様式の「色絵粟鶉文八角鉢」と比較すると粟と鶉以外に草花と地、さらに雲が描かれ、縁の文様と含めて器全体に図像が埋め尽くされているとのイメージが強い。また「色絵粟鶉文八角鉢」よりははるかに色彩が多く使われている。草花と地は図像に奥行きを与えている。この大皿の製作意図は何であろうか。一般に古九谷様式の色絵磁器はその製作意図が不明なものが多い。それは古九谷様式についての記録がほとんどなく、製作場所すら最近になって有田であると推定されるようになったほどである事情による。
この「色絵粟に鶉図大皿」を図像から解釈すると、まず縁の七宝文と卍の入った四方襷文がいずれも吉祥文であることから、ただ単に秋の風物を描いたものではなく、寿ぎの意味を持つものと理解される。特に七宝文はわが国において仏の世界をシンボライズしたり、蓬莱などの神仙世界を象徴したり、カトリックの聖具においてキリストの存在を示す装飾として使用され、別世界・浄土・あの世を象徴する文様として広く使われている。
七宝文や四方襷文に囲われた世界は別世界、浄土であると解釈される。粟と鶉の描かれた見込みの世界は非日常的な浄土、あの世ということになる。日常的な光景の描写である粟と鶉の世界が浄土やあの世とされていることは、現世浄土的な表現であるといえるだろう。ただ図像の左上にある赤い飛雲はここに描かれた世界が日常の出来事なのではなく別世界なのだと暗示しているように思われる。またこの唐突な赤い飛雲は何らかの呪詛とも感じられる。その意味で先の柿右衛門様式の「色絵粟鶉文八角鉢」よりも説明的であるともいえるだろう。

古九谷様式 色絵粟鶉文八角台鉢(サントリー美術館)

径二九・二センチの大きな角のように鋭角をなした八角形の鉢である。口縁部に銹釉が施され、周縁部は鉢の八角形にそって八つに区切られ、七宝文の地に緑釉がかけられている。見込周縁はさらに七宝文の地に青い釉薬が施されている。見込には白地に五彩で二羽のつがいの鶉、さらに粟、草花が描かれている。鶉の手前には太湖石のような岩が描かれ、そこにもわずかに草木がある。表現の手法は「色絵粟に鶉図大皿」に似ている。
二羽の鶉は地面を歩きながら、一羽は落ちているであろう粟に眼がいっているようであり、もう一羽は足をふんばりながら上方を見つめている。
この八角鉢で印象付けられるのは、その強調された八角の形態である。陶磁器は轆轤を使って製作する場合、形状が円形をなすのが自然である。鋭角的な八角形の形状を得るには轆轤で成型の上、型に押し付けて成型するか、八角形の型に板状の磁器土を押し付けて形状をなす方法のいずれかがとられたものと思われる。この方法を用いれば六角形でも十角形でも可能であるが、轆轤で成型したものに比べて焼成時に歪みやすく、わざわざ製作する感が強い。それゆえ鋭角的な八角形の形は、単なる思い付きで作られたのではなく、ある意図をもって製作されたと思われる。前出の「色絵粟鶉文八角鉢」もそうであり、柿右衛門様式でも「花卉文八角瓶一対」(サントリー美術館)のように八角形が多く採用されている。
八角形は法隆寺の夢殿、興福寺の南円堂など仏堂で知られると同時に、八仙など別世界にかかわりをもつ形態ともいえる。また八は末広がりで縁起がいいと古くから観念されていた。粟と鶉の寿ぎの意味が磁器の形態にも関係していると見るべきであろう。

伊万里(柿右衛門様式 ) 色絵鶉粟図皿(栗田美術館)

径一四・九センチのやや小ぶりな円形の皿である。口縁部に銹釉が施された以外に図像を縁取るものはない。乳濁色の地に二羽の鶉と粟、秋の草花が描かれている。同じ柿右衛門様式の「色絵粟鶉文八角鉢」よりは描かれているものが多いが、空間としての白い地が印象深い作品である。赤絵の手法が頂点に達した元禄時代の作品と考えられている。鶉の表現などに高度な技法が使われているが、基本的には前出の作品と同様な表現意図にもとづくものと考えられる。円形の形態の中で鶉、粟、草花が絶妙なバランスで配置されている。
二羽のつがいと思われる鶉はやや離れているが、一羽がまっすぐと空間の一点を見つめているの対して、向き合うもう一羽は首をふってさきの一羽と同じ方角に眼をやっている。警戒すべき対象がその先にあるのか、鶉にとって興味を引く何かがあるのか興味深い。このような表現からは鶉の生態への深い観察が見て取れる。草花の表現が皿の丸い形状に合わせて彎曲をなしているのだが、鶉と粟は歪められずに描かれているのは、鶉と粟がこの皿の重要な主題であることを示している。観察による鶉の表現は自然への愛着と同時に、草木悉皆浄土との宗教性を感じさせるものである。

伊万里 染付鹿之子地文鶉粟図大皿(栗田美術館)

この作品は色絵ではなく、白地に紺色で描かれる染付である。径は五七・五センチもある大きな皿である。全体に小さな六角形が連続する鹿之子地文が描かれている。下方に地面を表す空色の塗りつぶしがありその上に二羽の鶉か身を接してたたずんでいる。下方左から三本の茎の粟が器の円形の形状に沿って回り込むように右側まで描かれ、粟の穂先が図像の右方に垂れ下がっている。
今まで取り上げた作品の中ではもっとも粟が大きく描かれており、草花は描かれていない。粟は葉の一枚一枚が多様に描かれており粟に対する観察の鋭さを感じさせる。
二羽の鶉はそれぞれ違う方向に目をやり、一羽はうずくまりながら口をあけて鳴いているようである。もう一羽は足をしっかりと立てて、首を体の逆側に向けている。この二羽の鶉の眼光は鋭く描写されており、野生の警戒心を感じさせる表現である。この作品にも自然への観察の鋭さを見ることが出来る。
目次

絵画に描かれた粟鶉図

絵に描かれた粟鶉図としては土佐派の作品の中にいくつか見ることが出来る。土佐派は室町時代以降やまと絵の正統とされてきた。やまと絵とは平安時代に中国的主題を描く唐絵の対立概念として成立したものである。やまと絵は鎌倉時代から室町時代にかけては宋・元画の影響によって成立した水墨画に対する平安時代からの伝統的な様式を意味するようになった。やまと絵の継承者である土佐派によって粟鶉図が描かれていることは、粟鶉の画題が中国絵画の影響によるものでないことを示しているといえるだろう。
室町時代に起こった土佐派は一四三九年土佐広周が宮中で絵画の製作をつかさどった絵所の主任である絵所預となって興隆した。その後一時衰退するが、江戸時代初期に光則(一五八二〜一六三八)が再興し、光起(一六一七〜一六九一)が一六五四年に絵所預となり幕末まで続いた。特に光起は細密な筆さばきや巧緻な色彩で古典的な主題である「源氏物語」や花鳥図を描き、さらに保守的な土佐派の画風に狩野派の技法を採り入れるなどして再生したとされる。光起にはいくつかの粟鶉図がある。

土佐光成筆 粟鶉図(根津美術館)

>縦一二〇・七センチ、横三三・〇センチの絹本着色の軸物である。無地の上に三茎の粟が右方より立ち上がり、白く着彩された粟穂が三つ垂れ下がっている。粟の根元に一羽の鶉が足を地につけ、身体は左に向けながら首を粟のある右に向けている。一見すると寂しげな秋の粟野を徘徊する鶉を写生した絵と見ることができる。根津美術館の図版解説によると「たわわに実をつけた粟の穂と、その下に姿をみせる一羽の鶉も、秋の風情をあらわす景物画であると同時に、藤原定家の『人めさへいとゝふかくさかれぬとや 冬まつ霜にうつらなくらん』などの秋の景物、風情を詠じた和歌の歌意にもとづいた、一幅の『歌絵』といえる。」とのことである。

鶉をテーマにした和歌には他に

藤原俊成 夕ざれば野辺の秋草身にしみてうずら鳴くなる深草の里

藤原定家 鶉鳴く夕の空を名残りにて野となりにけり深草の里

などある。また粟と鶉をテーマとしたものには

わがせこがかりにのみくるわはづ野にうづらなくなり草がくれつつ 夫木本

うづらなくあはづのはらのしのすすきすぎぞやられぬあきのゆふべは 長秋草

などがある。

深草の里とは、現在の京都市伏見区深草のことで、桓武天皇の平安遷都(七九四)の際、深草の山々の西麓を、清浄の地と定め、庶民の埋葬を禁止したとされる。やがて深草は藤原一門の荘園となり、広大な山荘別邸や大寺院が建立された。また多くの貴族の埋葬地ともなっていた。いつの頃からか三心房墓地として横死者の埋葬地として土地の人々に知られてきたとされる。平安貴族は深草の地を愛で、多くの和歌を読んでいる。 深草は鶉の里として知られていた。
先の藤原俊成や定家の和歌には秋の景物という以上に栄華を極めた藤原氏ゆかりの里が、今は名もない横死者の埋葬地として寂寞とした草むらとなり、華やかさの名残りとして、また死者の叫びとして鶉が鳴いているとの風情である。
鶉と粟の取り合わせには、秋の夕暮れの草むらに鋭く鳴く鶉という寂寞感がある。この「粟鶉図」には華やかだった場所も今は粟の穂をついばむ鶉しかいないとの意があるのかもしれない。しかし今秋が暮れ寂しい野にもやがて梅と鶯の春は必ず来るの暗喩もあるように思われる。王朝文化の和歌を画題にとしているが、それらの和歌の意と同様にただ単に秋の風物を描いたのではなく、栄華と寂寥、暮れ行く秋とやがて訪れる春、生と死などの意味をこめた作品と見ることができる。作者の土佐光成(一六四六〜一七一〇)は光起の長男で、父を継いで絵所預になった。その画風は光起に学んだものである。
粟と鶉を描いた絵画作品には土佐派の作品とは別に住吉派の鶴州筆「粟に鶉」(香川県歴史博物館)といった作品もある。この場合は「松に雉子」と対となっている。「粟に鶉」が秋の景物として描かれているのに対して、「松に雉子」は冬の情景として描かれている。この他に春と夏の図があったのかも知れない。「粟に鶉」は大きく描かれた秋草と三茎の粟と粟の根元に一羽の鶉、その鶉の向いている方向から今まさに降り立とうとするもう一羽の鶉が描かれている。土佐光成の「粟鶉図」に比べると全体に動的な印象が深いが、同様な意図のもとで描かれたものと思われる。
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粟と鶉の示すもの

粟と鶉はいままで述べてきたように、神社や寺院の建築を装飾するものであったり、陶磁器に描かれたり、絵画として描かれてきた。しかし今日ではその製作の意味が見えなくなっている。粟と鶉は何を意味しているのか。
日本の伝統的な造形の世界では、作品がただ単に風物を示すことはなく、ユートピア、別世界やあの世、神仙世界を指示するものであった。粟と鶉にも日常の風物に托して何かの理想、神への意識を描いたものであると考えられる。
鶉には秋の実りの神の化身、五穀の豊穣の神の姿と見ていたのではないか。たわわな粟の穂は秋の実りであり、鶉は実りをもたらす神の姿と見立てられているのである。粟と鶉には日本の弥生時代からの伝統である地霊(粟)と穀霊(鶉)の出会いが実りをもたらすとの信仰があるように思われる。さらに粟と鶉は秋の神の到来を示す神の化身である。秋の神の存在はやがてくる冬、そして春をあることを保証しているのである。
吉野裕子氏は正月行事の「鳥追い」に注目し、十二支の「酉」が金気であることから「金気の鳥を追うこと、攘うこと、殺すことは、金気を叩き、木気を扶ける迎春呪術ではなかったろうか。」 と述べている。このことは先にあげた和歌の中にもある鶉狩りに関わりがあると思われる。秋の野に鶉を狩ることによって、陰陽五行説での秋を示す金気をシンボライズする鶉=鳥=酉を叩き、木気である春の到来を祈願するのである。
粟は粟散辺地といえば極めて辺鄙なところを指すように、華やかな中央からはほど遠いうらぶれた印象をもつ穀物である。また先に書いたように秋の夕暮れの寂寥とした光景を象徴している。また粟の実がごく小さいことから、「滄海の一粟」として、人間存在のごく小さいことの喩えにも用いられている。
鶉は「鶉合せ」として、その鳴き声を競うことがあるように、鳴き声が愛でられていた。また鶉の鳴き声は神の声とも信じられていた。鶉の見かけは地味なもので薄茶色の羽毛におおわれ、秋の枯草の中では目立たない存在であろう。先に述べたように鶉衣、鶉床などのことばは鶉がうらぶれた、侘びたものであることを示している。
粟と鶉のいる秋の野は中心に対する境界ではないだろうか。山口昌男氏は境界について「人は、自らを、特定の時間の中で境界の上または中に置くことによって、日常生活の効用性に支配された時間、空間の軛から自らを解き放ち、自らの行為、言語が潜在的に持っている意味作用と直面し、「生れ変る」といった体験を持つことができる。」 と述べている。粟鶉図はそのような境界を提示することによって、中心である人々に生れ変りと活気を意識させるのではないだろうか。
この粟と鶉という辺鄙で侘びたものを絵に描き、和歌に歌うことには日本人の別世界意識と関係があると思われる。人里はなれた場所、中央とは逆の人心の及ばない場所はかつての人々にとって、現実の延長線上にはあるがあの世、浄土であった。秋の夕暮れに街の喧騒をはるかに離れた田舎の草むら、寂しくそして鋭く鳴く鶉の声、そしてその場所が死者の埋葬地であったなら、人々はそこに境界としてのあの世をみたことであろう。うらぶれて物悲しい場所であればこそ、見えない浄土は華やかで清浄な場所として意識されたのである。
>茶の湯の侘の精神が、絢爛豪華の世界の裏返しであったのと同様に、現実の枯野の寂しい光景は、青々とした春の生気に満ちた世界を想起させるものである。日本人の彼岸意識はこの世とあの世はあべこべであるというものである。この世の昼はあの世の夜であり、この世での着物の着方とあの世のそれは逆であるとかに示されている。したがってこの世でうらぶれて物寂しい光景はあの世では華やかな世界となるのである。
秋の粟穂のある草むら、夕暮れ時、鶉が鳴く。それは死者の世界である。しかし死者はまたこの世に生まれ出てくることを想えは、そこは生の充実の世界なのである。粟と鶉の図像も茶の湯や能がそうであるように日本人の死と再生の観念を表している。

注1:諏訪の宮大工・立川流の二代目。「諏訪の和四郎」の名で知られる。富昌は特に天才的な彫物師として名をなした。作例としては文中で取り上げた以外にも建築としては長野県諏訪市の下諏訪神社秋宮神楽殿がある。また彫物としては愛知県半田市の亀崎潮干祭の山車の内、力神車の「力神」、「海棠に親子鶏」、「力雄神」、「力雌神」などで、いずれも文政十年(一八二七)の作、花王車の「太平楽の楽人」、檀箱蟇股の造形などで、弘化三年(一八四六)の作がある。また山梨県白州町の諏訪神社にも立川和四郎富昌の作例を見ることが出来る。
注2:小林武・伊藤桂司・河原正彦・元井能著「日本の文様 鳥・虫」光琳社出版、一九七七年、二〇頁
注3:篠田統・応地利明・小南一郎・河原正彦・榊原吉郎著「日本の文様 五穀・果実」光琳社出版、一九七五年、三〇頁
注4:前掲書「日本の文様 五穀・果実」、三四頁
注5:武田傳右衛門発行「八種画譜」武田文永堂、大正六年版を参照した
注6:拙論「柿右衛門様式における図像表現について」神奈川歯科大学基礎科学論集一八、二〇〇〇年、四〇頁
注7:栗田美術館を創設した栗田英男氏は柿右衛門様式の存在を認めず、柿右衛門様式、古九谷様式はいずれも佐賀県有田町赤絵町の陶工たちの作としている。それらの様式をふくめて「伊万里」とすべきであるとしている。ここでは美術館の分類にしたがい、柿右衛門様式を括弧入りとする。
注8:根津美術館学芸部編『根津美術館蔵品選 書画編』根津美術館、二〇〇一年、一六九頁
注9:http://www.nnpjp.com/rekisi/03.htmより引用した。
注10:吉野裕子『十二支 ー易・五行と日本の民俗ー』人文書院、一九九四年、二三二頁
注11:山口昌男『文化と両義性』岩波書店、一九七五年、