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若狭小浜の「お水送り」を見る

   泉滋三郎. 湘南文学. 14:153-159 , 2001.

omizu27s「お水送り」の松明行列

目次

1. はじめに
2. 若狭小浜へ
3. 「神宮寺」へ
4. 「お水送り」を見る
5. 「お水送り」

はじめに

毎年三月十二日には奈良の東大寺二月堂で「お水取り」がある。その十日前三月二日に福井県若狭小浜の鵜の瀬で行なわれる「お水送り」は「お水取り」ほどには知られていない。
今年(2000年)三月、この若狭での「お水送り」を見たくなり出かけた。今までいくつかの祭や年越行事を体験したが、「お水送り」ほど心に染みわたる民間宗教儀礼を経験したことはなかった。以下、その時の見聞を記す。

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若狭小浜へ

「お水送り」の行われる小浜まではJR北陸線の敦賀駅から小浜線に乗り換え舞鶴方面に向うこととなる。三月初旬、除雪された道以外はまだ雪が残る。二両編成のディーゼルカーは暗い蒼さをたたえる日本海を右手に見ながら、岬と岬の間に広がる僅かばかりの平地と、岬に連なる低い山並みを抜けるトンネルや切通しを日頃乗りなれた都会の電車よりはずっと遅い速度で左右に揺れながら進んでいく。若狭出身の水上勉は小浜線の情景を「汽車はつまり、帯のような海岸を、半島が、小屋割りにして小さな平野を区切ってゆく海べりを、すれすれに通る・・・」と書いた。
ローカル線の客は敦賀で連絡する特急から乗り込んだ、東京や関西から仕事で来たと思われる人、若狭を郷里とし帰省する若者、それ以外は近在の高校生たちが大半を占めていた。
小浜までの駅の多くは無人駅であるが、途中「気山」という三方五湖に隣接する駅では高校生達が勢いよく乗り込んできたこともあり、他の駅とは違う活気のようなものがあった。この「気山」は平安時代、大陸に対して開かれた港のひとつ「気山津」であり、大陸から渡来した人やものは、ここから琵琶湖北岸の「塩津」あるいは「木津」を経由して琵琶湖の南端「大津」に船で運ばれ、さらに京に到着するのであった。
小浜は沿線で一番大きな街である。駅前は日本のどこにでもある中小都市のそれと大同小異といったところで、バスの発着所が三つほど、休日でもさして人出は期待できないアーケード付きの商店街、室数が二十を超えないと思われるビジネスホテルなどがあるのみである。
もっとも小浜の中心は港に近い旧市街あたりであろうから駅前がうらぶれていても驚くにはあたらないのかもしれない。この町は海に開かれている。若狭は、志摩、紀伊、淡路などとともに「御食国(みけつくに)」とされ、天皇の食料を献上する国とされてきた。古くから若狭湾や日本海で捕れた魚介類や北前船が運ぶ海産物が陸揚げされ、奈良・京都に運ばれて行った。
若狭が海運や漁業に深く関わることは、今は旅館「福喜」となっている海商古河屋五代目当主、嘉太夫が文化十二年(一八一五年)に築いた別邸の贅を尽くした建物に見ることができる。古河屋は千石船で北は江差から南は四国まで物資を輸送し、小浜藩の御用達をつとめた豪商であった。また小浜市内の宗像神社や若狭彦神社に千石船を御神体としてまつる船玉神社があることや、遠く青森県の深浦に若狭小浜の船主が奉納した絵馬があることからも覗える。
小浜駅前からアーケードの商店街を七〜八分歩くといづみ町がある。いづみ町の入口には「鯖街道起点」とある。小浜から上中町熊川宿を通り朽木村を経て京都大原への十八里の道は若狭街道と呼称されるが、この道を京都まで鯖を一日で運んだとのことから「鯖街道」とも呼ばれている。「鯖街道」の命名には鯖のみならず、多くの海産物がこの地から京に上って行ったことを示している。

saba1s鯖街道の起点

現在のいづみ町には「鯖街道」資料館があるほかには魚屋が数軒あるのみである。しかし魚屋の店先には径が2メートルほどもある楕円形の盥に鮮魚が並べられていたり、串に刺され炙られた鯖が大きさを揃え列をなして売られていたりして、往時の活気を垣間見ることができる。今は日本海の豊富な海の幸を港近くの魚市場で見ることが出来る。
小浜は今となっては鄙びた地方都市にすぎないが、奈良時代からの歴史をかさねた町であり、江戸時代から明治の初めにわたって海運で栄えていた。そのことは古道具屋の陳列棚にも見られる。古道具屋に入ると伊万里の磁器、備前や信楽の壷など、その豊富さに驚かされる。店の主人に聞くと、跡継ぎのいなくなった家や、家の新築時に古い家屋を解体すると夥しく陶磁器などの古い道具が出てくるので、まとめて引き取ってくるとのことであった。それらは骨董品というほどのものではないが、磁器の食器などは組が揃っているものが多いのと、なによりも量が多いのに感心してしまう。

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「神宮寺」へ

「お水送り」を見るには、車かバスで「お水送り」の起点となる「神宮寺」に行くことから始まる。
「神宮寺」へは小浜から国道二七号を東に向い若狭国分寺跡とされるあたりを右に折れ、遠敷川沿いに進む。するとすぐ右手の鬱蒼とした木立の中に「若狭姫神社」が見えてくる。この神社は養老五年(七二一年)に川上にある「若狭彦神社」から分社して創建され、祭神は龍宮城の乙姫、豊玉姫命とのことである。
川上の「若狭彦神社」もまた深い杜の中にある。社や祠などはさほど古いものではないが、境内に佇むと引き締まった空気を感じ、そこに流れた時間の長さに気付かされることとなる。若狭彦神社は小浜で最も歴史が古く、和銅七年(七一四年)に遠敷川上流の下根来の白石に創建され、「お水取り」が執り行われる鵜の瀬を経て、霊亀元年(七一五年)に「神宮寺」に祀られ、宝治二年(一二四八年)現在の地に遷されたとされる。祭神は海幸・山幸の神話で名高い「山幸彦」、天津日高彦火々出見尊である。「若狭彦神社」では毎年十月九日から十日に遠敷祭が行われる。
若狭の一ノ宮に「山幸彦」の物語や龍宮伝説が残されていることは、若狭と海との関わりから興味深い。彦火々出見尊と豊玉姫命は共に遠敷明神と呼ばれ、遠敷明神は「お水送り」の伝説に深く関わっている。
「若狭彦神社」をすぎるとほどなく「神宮寺」の仁王門に行きあたる。門ではあるが現在の境内からは離れた畑の中にぽつんとあり、まるで小さなお堂が一つあるように見える。かつては七堂伽藍を備えた大きな寺院であったことをこの孤立する仁王門は物語っている。

jinguji3s神宮寺仁王門

昨年夏に訪れたときは仁王門から本堂まで草むした道を歩いたが、道端の彼岸花が夏草の中、燃え立つような赤を際立たせていた。今は残雪に踏みつけ道がそこだけやや茶色くなって細く続いている。
「神宮寺」は和銅七年(七一四年)和朝臣赤磨により「神願寺」として創建された。翌年には元明天皇の勅願寺となり、遠敷川上流の白石に影向されていた彦火々出見尊を遠敷明神としてお迎えし神仏両道の寺となったとされる。
神宮寺とは寺の名として珍しいが、この若狭国若狭彦神宮寺と越前国気比神宮寺は、本地垂迹説以前のもっとも古い神仏習合により建立され、わが国独自の神仏両宗教の習合文化の先駆けなのである。後で述べるように、ここで執り行われる「お水送り」は自然信仰、修験道、仏教が渾然一体となった儀礼である。それは日本人の古い信仰形態を示しているのかもしれない。
その後、宝治二年(一二四八年)に若狭彦神社を別に造営し、若狭彦神社と若狭姫神社の別当寺となり、「霊応山・神宮寺」と改称した。鎌倉幕府四代将軍であった藤原頼経公より七堂伽藍二十五坊を寄贈され、鎌倉幕府勅願寺社七大寺七大社のひとつに数えられていた。しかし度々の天災や戦乱等で、今では仁王門や本堂(いずれも重文)開山堂、円蔵坊、桜本坊を残すのみである。本堂は天文二二年(一五五三年)朝倉義景によって再建された。
境内は狭くはないけれど、さして広いという印象もない。それよりも境内に平地が少ないようで、急ではないが全体に傾斜しているように感じられる。塔などがないせいか、建物の連なりはその大きさのわりには控えめな印象である。堂々としているのではなく、蹲るような静かさである。
本堂に向って左側にすだ椎の巨木がある。すだ椎の根元近くに小屋がけされた涌き水の水汲み場がある。そこが「お水送り」で送られる神聖な水を汲む場所である。

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「お水送り」を見る

「お水送り」の当日三月二日夕方五時過ぎ神宮寺に入ると、既に境内は「お水送り」に参加する人、見に来た人、写真を残そうとかまえている人、報道関係者等でごった返している。
多くの人が手に松明を持っている。また敷地の隅のほうには寝かされて用意された大松明も目にすることが出来る。「お水送り」は奈良東大寺二月堂の「お水取り」がそうであるように、火祭りでもある。
実は「お水送り」神事は当日の午前中から既に始まっている。まず遠敷川上流の下根来の八幡神宮講坊長床で行われる「山八神事」がある。神宮寺別当僧による修法があり、供物の赤土饅頭をつけた棒で宮役が外陣の柱に勢いよく「山」「八」と書いて豊作を祈願する神事である。
さらに昼過ぎからは神宮寺本堂で「修二会」が錫杖、懺法、悔過の順で営まれる。「修二会」が終了し、夕闇が迫るころ「お水送り」の始まりとなる。
まず「神宮寺」の僧が大松明をかざして本堂の回廊を左右に走る。これを「達陀の行」という。達陀とは韃靼を想起させ、韃靼とはタタールのことで中央アジアに連なる。「お水取り」という宗教儀礼が中央アジアや西アジアの文化を背景にもつことを暗示しているのか。

omizu08s神宮寺「達陀の行」

次に達陀の火は修験者の礼法の後、木々の葉や枝をうずたかく積みあげたものに付けられ、大きな護摩が焚かれる。護摩は智慧の火で煩悩の薪を焚くとのことであるので、うずたかく積まれたものは正月のどんと焼きなどと同様に煩悩の象徴なのであろう。この大護摩は着火直後に猛烈な煙を出し、一寸先も見えないようになる。この激しい煙の中にいると、燃え盛る火になる前の白い煙霧は薪から押し出された煩悩なのかもしれないと思ってしまう。
その間、汲み上げられた聖水は祭壇に竹筒に入れられて安置されている。
大護摩が激しく燃え盛ると、その火が用意してあった大松明に移され、さらに人々の持つ松明に移されていく。
山伏姿の行者や白装束の僧侶らを先頭に、ほら貝の音とともに松明行列が遠敷川の二キロほど上流にある鵜の瀬へ向う。参加している人々もまた連となって大松明を担いだり、一人一人で松明を捧げたりして、鵜の瀬へと不規則な列となって歩いていく。松明行列とともに白装束の僧が祭壇から竹筒に入った聖水を抱え持ち、前後を守られながら進んでいく。
夜の闇の中、残雪の田圃の一本道を延々と松明行列が続いている。私には確かに始めてみる光景なのだが、懐かしさを伴う既視感がある。そこには華かさや、その逆の寂びた風情もない。ゆらゆら揺れる松明の火が彼方まで連なっている情景は真に美しいものである。
鵜の瀬は遠敷川が緩やかなカーブをなした所にある。川の流れがそこだけやや緩慢になり、昼の光では暗緑色の流水が、白の多い周りの岩と好対比を見せている。「お水送り」神事が行われる対岸は懸崖をなし、注連縄がはられている。水と接する岩には流水を飲み込んでいるように見える岩穴がある。鵜の瀬から送った水は奈良東大寺の若狭井に地下の洞穴を通っていったとの伝説があるが、鵜の瀬の岩穴はその入口なのだろうか。

unose5s鵜の瀬 奈良東大寺に通じる穴?

松明行列と聖水が鵜の瀬に到着すると、大松明は予め定められた場所に寝かされた状態で置かれ、送水神事を待つこととなる。暗い川面に大松明の火がいくつも揺らめいている。
鵜の瀬でもまた大護摩が焚かれ、あたり一面は火の粉が飛び交い、真っ白な煙に覆われ、木々や葉の燻る強烈な臭いが鼻をつく。その中で松明の火と人影がぼーと見え隠れし、その場全体が異様な興奮に包まれる。
鵜の瀬の川辺には、この火と水の神事をカメラに収めようと川の中までにも三脚が林立している。
そんな中いよいよ送水神事が始まる。川中に突き出した岩の上で、ほら貝が吹かれ、日本刀で空を切り結び、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒から香水を遠敷川へと滴らす。そして儀式は唐突に終わる。時計の針は午後九時すぎであった。

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「お水送り」

omizu37s聖水を遠敷川に注ぐ「お水送り」

「お水送り」とは、奈良東大寺へ若狭の香水を送る神事である。この聖なる水は二月堂の「修二会」で若狭井から汲み取られる。
始まりについては諸説あるようだが、東大寺初代別当良弁僧正に招かれ、二月堂を建立したインド僧実忠和尚の「修二会」初日に遅刻した若狭の遠敷明神が、お詫びに清水を送ったこととされたり、実忠和尚が二月堂の行法を創始したとき、諸神の名を読み上げて神々を請じたところ、一番に遠敷明神が現われ「二月堂に最も大切な伽藍水を奉ろう」と語り、直に白・黒2羽の鵜が出現し、地を穿つと見る間に清泉が湧き出た、などの説がある。
いずれにしても遠敷明神や鵜の瀬が東大寺と深い関わりがあることを示している。東大寺の「お水取り」は身や心の穢れを祓い、春を迎える再生儀礼とされるので、若狭井から汲み出した水は穢れを清め、再生をもたらす生命の水である。水の源である若狭の遠敷鵜の瀬は生命の水をもたらす場所ということになる。遠敷鵜の瀬は東大寺の真北にあり、陰と陽が交差する場所であり、死と死がもたらす再生を象徴している。
「お水取り」に代表される東大寺二月堂の「修二会」では、若狭井から汲み取られた新しい水は聖なる水として須弥壇の下にある壷に一年間保たれ、「お水取り」では当年汲み上げた水ではなく、昨年汲み上げ、須弥壇の下にある壷に溜めおかれた水が使用される。これは昨年の水が再生直前のけがれを象徴しているからだともいわれる。

「お水送り」は雪が残り、春まだ遅い若狭の迎春行事である。祭の華やかさはなく、また宗教儀礼の厳粛さもない。しかし田舎道に続く松明の列、夜の川面に揺らめく火、大護摩の煙など簡単に忘却を許さない場面が多々ある。「お水送り」を通過して、送水神事の意味するものとはまた別に若狭の人々は、これでまた春が来ると実感するのかもしれない。

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